幸せを手に入れるんじゃない。
幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ!
私の大好きなボーカリスト・甲本ヒロトさんの言葉です。
幸せになるためにあれも欲しいこれも欲しいと追いかけていても、欲しいものは増え続け、手に入らない不足の思いが湧き上がってきます。不足のものを求めるのではなく、今ある全てを喜び満足することが幸せへの近道です。
誰だって、今自分が置かれている状況に、不満も不足もあることでしょう。それでも幸せを感じることはできるはずなんです。心の持ち方ひとつで幸せになることはできるのです。
心ある 人には見らる やぶこうじ
※「やぶこうじ」とは、サクラソウ科ヤブコウジ属の常緑小低木。林内に生育し、冬に赤い果実をつけ美しいので、栽培もされる。別名、十両。(Wikipediaより)
九州電力の相談役である松尾新吾さんは、私に「電力の三要素(低廉・豊富・良質)」を教えてくれた方です。電力がこの三要素を満たせなければ、国家の繁栄も豊かな国民生活も実現できないと教えていただきました。
そんな松尾相談役がくださったのがこの言葉です。鬱蒼とした林の中の低い木についた小さな赤い実。そんな小さな存在であっても、見ている人は見ていて、美しいと思ってもらえるのだと教えていただきました。どんな地道な努力も、心ある人は必ず見ているから頑張りなさいとの教えです。現代の政治はうまくパフォーマンスをした人が評価される時代ですが、不器用でもコツコツ頑張っていきたいと思います。
あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい
新型コロナウイルスによって長期にわたって日常活動が抑圧されている中、人々のストレスも限界まで高まっています。そうした時、どうしても人は人に対して攻撃的になっていきます。テレビやネットで何か問題行動が指摘されたら、みんなでよってたかって叩くという荒んだ状況に陥っています。
人が人を許すことのできない社会になっていないでしょうか?苦しいのは皆同じです。心の中に怒りが芽生えたらこの言葉を思い出し、寛容さのある社会を作っていきたいものです。
一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが処世上の第一要件である
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である実業家・渋沢栄一の言葉です。
前半部分、人はそれぞれ天の使命を持っているという部分に共感するとともに、それを「楽しんで生きる」ことが「処世上の第一要件」としているところに懐の深さを感じます。
使命感をもって働いていても、あらゆる仕事には困難がともないます。投げ出したくなることもあるでしょう。しかしそれを乗り越えていく秘訣は、「楽しんで生きる」という姿勢なのでしょう。四角四面の使命感にとらわれて押しつぶされるよりも、良いことも悪いことも天命でありそれをひっくるめて受け入れて楽しんだほうが、長く頑張ることができるのだと思います。肩の力を抜いて、天命を楽しんで生きてみようと思います。
許すということは、強さの証だ
長引くコロナ禍で、人の心も荒んでいます。根本的な原因はコロナという疫病ですので誰のせいにもできないのですが、人は弱い生き物で、その苦しさを誰かのせいにしてしまいがちです。溜まったフラストレーションは怒りとなり、他者に向かいます。マスクをしていない人を糾弾するマスク警察、自粛をしない人を責めたてる自粛警察…怒りの連鎖は人々を萎縮させ、萎縮させられた人々はさらにフラストレーションを溜め込むという悪循環が続いています。
「コロナよりも怖いのは人だった。」新型コロナに感染した人が語った感想です。人を叩くという行動は、巡り巡って自分の環境をも窮屈なものにしていきます。皆が人を許す心の強さ・優しさを持てば、苦しいコロナ禍も少し楽になるのではないでしょうか。苦しい中でも優しい気持ちを忘れず、思いやりの連鎖を作っていきましょう!
一生辛苦、為に情多し
ウィキペディアでは「石如の出現で清代の篆書・隷書が一変したと言っても過言ではない。」と記述されているほどの書家ですが、その人生は苦労の多いものだったようです。この言葉も「私の人生は一生苦労の連続だった。だからこそ、情が多い(他人の苦しみや悲しみが良くわかる)のだよ。」という意味です。
人間、苦労を経験しなければ、他人の痛みはわからないものです。新型コロナという未曽有の困難も、ここで苦労したことが人生の糧になると思って、逃げずに立ち向かいたいと思います。
一瞬を頑張れ!
「平成のKOキング」と呼ばれたプロボクサー坂本博之さんは、幼少期に両親が離婚、預けられた親類宅では虐待とも呼べるような過酷な環境で育ち、その後児童養護施設で多感な時期を過ごしました。ボクシングの才能を開花させた後はハードパンチで鳴らし、4度の世界戦を闘いました。世界王者にはなれなかったものの、引退後の坂本さんは全国の養護施設を訪問し、そこで暮らす児童を励ましています。
「一生を頑張ろうと思うと疲れる。だから一瞬だけでいい。一瞬を頑張れ!」と言うと、子供達は「一瞬なら頑張れる!」と反応するそうです。人生は一瞬の積み重ねです。一瞬を頑張ることを覚えた子供は、一歩の前進、一つの成功を身に着けていくことでしょう。
私も一生頑張ろうと気負わず、一瞬一瞬を頑張ってみようと思います。
やればできる!
高校球児として名門・済美高校のエースだった高岸さんですが、大学進学後、故障によりプロ入りを断念しました。芸人になった高岸さんは、今度は自分が人を元気にする側に回ろうと決意し、「やればできる!」という言葉で多くの人を励ましてきました。
私が一番感動したのが、2020年10月4日に神宮球場で行われたプロ野球 ヤクルトvs広島の始球式です。神宮のマウンドに立った高岸さんは感極まって号泣します。時速150kmを目指して投げた球は138kmでしたが、そのマウンドで涙ながらに叫んだ「やればできる!」に、私も涙があふれました。全ての人を励ますこの言葉に勇気をもらい、今日も頑張ります!「やれば!!できる!!」
伸びしろしかない!
笹丘少年ラグビークラブ⇒西陵高校⇒福岡大学⇒コカ・コーラレッドスパークスと、福岡を舞台に日本のラグビーを盛り上げてきた築城さん。選手として現役引退後は、持ち前のエンターテナーぶりを発揮し、ラグビー普及を生業として独立することを決めました。やることなすこと初めての挑戦、そこに突然やってきたコロナ禍……へこたれてもおかしくない中で築城さんが力強く発した言葉が「伸びしろしかない!」でした。
0から始めるということは、360度可能性に包まれているということ。できないことを悔やむよりも、ひとつずつできるようになることに喜びを見出すのです。「自分は何もできない」と思うより、「自分には無限の可能性がある!」と思ったほうが圧倒的にいいです! 苦しい時こそポジティブにピンチを切り抜けましょう!
ダメだと思った時が夜明け前
新型コロナウイルスの影響で多くの事業者が大きなダメージを受けています。長引くコロナ禍で先が見えず、途方に暮れている方もおられるかもしれません。
すしざんまいの木村社長もそうしたピンチを幾度もくぐってこられたのでしょう。「ダメだと思った時が夜明け前」という人生訓を、経験の中から手に入れられました。一番暗い夜明け前、希望を忘れず最善を尽くしましょう!
報われないかもしれないところで情熱を持って継続しているのは大変なことであり、才能だ
日本を代表する将棋棋士である羽生善治さんの言葉です。獲得タイトルが多すぎて何とお呼びすればいいかわからないほどの羽生九段(とりあえずそう呼ばせていただきます)ですが、私は平成30年春の園遊会でご一緒させていただいたことがあります。お互い眼鏡の風貌が似ていると言われたこともありますが、私としては光栄なことです。
さて今月のことば、原典ではこのような長文でした。
何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。
トンネルは、光が差すまで掘り続けなければ貫通しません。まったく光が見えない暗闇で堀り続ける魂の強さこそが才能なのです。コロナ禍で先が見えない今だからこそ、自分ができることに情熱を傾けてコツコツ頑張りたいと思います。
おらんでも寂しくないけど、おらんと思うと寂しいね
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言も、当初の予定を超えて延長となりました。その間私も移動を自粛し、1カ月以上福岡に帰れていません。平常時でも忙しくしている私は、毎週福岡に帰っていてもなかなか親と会うこともありません。どっちみち会っていないのだけど、会えないと思うことで寂しい気持ちがよりつのるのでしょう。純情な親心というものは、時としてどんな哲学者よりも深い真理を突いてくるものです。
母と離れた子が、パンを食べたりおもちゃで遊んでいる間は楽しそうにしていても、「お母さんがいない!」と気づいた途端に寂しくなって号泣するようなことがあります。実際にいるかいないかよりも、側にいると思えるか思えないかなのでしょう。いないと思うと人は心細くなるのでしょう。親は子を思い、子は親を思う。例年とは格別に違う母の日になった気がします。
Darkest Before Dawn「夜明け前が一番暗い」
ミュージシャンの三浦大知さんの楽曲「Darkest Before Dawn」、日本語に訳すと「夜明け前が一番暗い」という意味です。英語のことわざでは「It's always darkest before the dawn.」となります。
今は真っ暗で何の希望の光も見えないけれど、この暗さは夜明け前、きっと夜は明ける!と逆説的に希望を見出している言葉です。
三浦さんの曲では、「この世界に降り注ぐ/朝陽を誰しもが待っている/ひとりでもひとりじゃない/そこにいるのは/君ひとりじゃない」と歌われています。
まさに今、誰もが暗闇の中にいて、そして朝陽を待っています。何も見えないけれど、ひとりではありません。励まし合って助け合って、この暗闇から皆で生還したいと思います。
大ピンチの時は、最低5球を費やせ
先月お亡くなりになった、戦後初の三冠王であり名監督である野村克也さんの言葉です。
テスト生として入団し、努力の末にレギュラーの座を勝ち取り、ON(王・長嶋)と競い合って戦後のプロ野球を盛り上げた野村さんの言葉は、人生経験に裏打ちされた滋味深いものとなっています。一流と二流の差とは? 頭を使え! 才能よりも努力だ! ……私はそうした野村語録が大好きで、折に触れては紐解きます。
新型コロナウイルスの感染拡大問題は、日本でも政府の威信に関わる深刻な課題となっています。なにぶん新型のためどうすることが正解なのかが誰にもわからず、右に進んでも左に進んでも叩かれるという事態となっています。しかしこうした大ピンチこそ、「慌てずに」「冷静に」「頭を使って」切り抜けなければなりません。一球で結果を出そうと焦ると痛打を浴び、人的二次災害を招きかねません。「焦るな!よく考えろ!」慎重に一球ずつ丁寧に組み立てます。結果、被害を最小限に食い止めるのです。野球の話なんだけど人生にも活かせる、それが野村語録です!
フェアかつ獰猛に
私の恩師、ラ・サールラグビー部 前監督の早坂正隆先生の言葉です。
ラグビーという激しいスポーツは獰猛でないと務まりません。しかし激しくぶつかる猛々しさを持ちながらも、フェアであれということを先生は説かれました。格闘技であり球技でもあるラグビーは「ルールのある喧嘩」だとも言われます。喧嘩の激しさを持つからこそ、ルールに則るフェアな精神が大切なのです。ルールがなければただの喧嘩です。フェアでなければ獣の争いです。フェアな精神があるからこそ、ラグビーは紳士のスポーツであり、ラガーマンは互いを尊敬しあうことができるのです。
日常社会においても、物理的な力の行使があるないにかかわらず、様々な闘いの場面があります。そんな時にもあくなき敢闘精神で立ち向かうと共に、フェアであることが求められます。「その行為はフェアか否か?」ラガーマンのはしくれとして、私は常に自分に問いかけています。
思い通りにならないから 人生は美しいのでしょう
私の友人・秋野ソラさんのフェイスブック記事に感銘を受けて転載させていただきました。この友人は歌手・詩人であり、男性3人のボーカルユニットiNiSiEで活動していました。「天声を授かりし3人」とも言われる美声が持ち味だったのですが、メインボーカルY氏の声が出なくなるという不幸に見舞われます。「Yの声は治る」、そう信じていたソラさんですがその思いは届かず、Yさんはユニット脱退となりました。最後のライブはたとえ声が出なくても全力でやりたい、引退試合こそフルスイングの三振で終わりたい、と最後はYさん本来のセンターポジションで歌ってもらったそうです。
頑張っても願っても信じても、人生は思い通りにならないことばかりです。だからこそ、全力で立ち向かう人の姿は何よりも尊く美しいのでしょう。全ての受験生が合格できるわけでもありませんし、全ての高校ラガーマンが花園へ行けるわけでも優勝できるわけでもありません。だけど皆、それぞれの夢と目標を持って努力を重ねてきたのです。「頑張れ!その努力は尊く美しい!」全ての頑張る人へのエールとして、年頭にこの言葉を贈ります。
小さい人から学びなさい
今年、38年ぶり二度目の訪日となったローマ教皇。世界カトリック教徒13億人の総帥たる人物です。11月25日に首相官邸にお越しになったローマ教皇フランシスコ台下のお言葉を、私は直接聞くことができました。私はカトリック信者ではありませんが、茶山カトリック幼稚園とラ・サール高校を卒業しており、聖職者の言葉は胸に響くものがあります。
この言葉は官邸での講演で出たものではなく、かつて教皇から直接教えを賜った日本人が聞いてきたという言葉です。「小さい人」とは「弱い立場の人」ということです。私はラ・サール高校時代(「倫理」というわずかな時間ですが)、ブラザー達から「あなたたちは将来世の中を背負うことになります。だからこそ善い人間性を身に着けなければなりません。」という教育を受けてきました。そうして少年の心に蒔かれた小さな種は、ある日善きものに触れた時に芽吹くのです。政治家として日々大きな権限に触れている私ですが、小さい人に学ぶという姿勢を忘れず世の中に貢献したいと思います。
最も大事なのは「お前には無理だ」と言う人の言葉を聞かないことだ
ラグビーワールドカップ2019日本大会で優勝した南アフリカ代表チームのキャプテン・シヤ・コリシ選手の言葉です。ワールドカップから凱旋帰国し、記者会見で子供達へのメッセージを求められこう答えました。コリシ選手は貧困家庭で育ちましたが、奨学金をもらいながら練習に励み、同国初の黒人キャプテンになりました。そしてワールドカップの優勝というこの上ない成功を収めました。コリシ選手は「夢を持ち続けること、信じ続けること、そして前に進み続けてほしい」と言葉でメッセージを締めました。大きな志は理解されがたいものですし、お前には無理だと言う人はいくらでもいます。そうした声に怯むことなく己を信じ続け前に進み続ける人にのみ、誰もなしえない成功を勝ち取ることができるのです。
ラグビーは少年をいち早く大人にし、大人に永遠の少年の魂を抱かせる
ラグビーワールドカップがたいへんな盛り上がりを見せています。県議時代の2011年からラグビーワールドカップ福岡誘致に取り組んできた私としては、これ以上ない感動の毎日を過ごしています。私が夢見たとおりに、いやそれ以上に、本物のラグビーに日本国民が触れる機会や、ラグビーを通じた国際交流、ラグビーという競技への理解が深まっていると思います。
楽しみにしていたオールブラックスの試合が災害対応で中止になったことを知った少年は大泣きしました。しかし涙を拭いて前を見据えました。釜石でマスコットボールを持つ予定だった少女は、中止の報を聞いても平気でした。震災を通じて、人命が何より大切なことを理解していたのです。
ラグビーを通じて多くの少年少女が大きく成長します。そして多くの大人が子供のように夢中になって喜び涙を流すのです。そんなラグビーの一面も知っていただきたいと思い、今月のことばとさせていただきました。
僕のプレーは特別じゃないけど、努力のプレー、ハートのプレー
日本代表として4大会連続でラグビーワールドカップに出場する、「トモさん」ことトンプソン=ルーク選手の言葉です。ラグビーという激しいスポーツで、ワールドカップに4大会連続で出場するというのはまさに快挙です。どんなに凄いプレーをする選手なのだろうかと誰もが思います。しかし本人いわく「僕のプレーは特別じゃない」。「努力」と「ハート」では誰にも負けないんだ! という自負心が伝わってきます。自分ができることを一所懸命にやり抜き、魂を込めて走りぶつかる。ただそれだけなんだと言っています。彼のプレーを見て、この言葉を聞くだけで、私は涙が出てきます。そして彼が私達と同じ誇りを持って日本代表として戦ってくれることを嬉しく思うのです。
楽観は意志である。悲観は気分である
フランスの哲学者で「幸福論」を書いたアランの言葉とされています。
私はこの言葉を2年前の解散総選挙の時に知りました。
私にとっては大変厳しい激戦となりましたが、悲観ばかりではなく時には意志ある楽観も必要だと気づかされました。
心を悲観に支配されて、世の中に明るい将来を約束できるわけがありません。
明るい未来を創るという強い意志をもって明るい訴えをしなければ、誰もついて来ないのではないでしょうか。
楽観主義で何の努力もしないというわけではありません。
最善の努力を尽くした者だけが、強い意志で明るい未来を信じることができるのです!
彼の成長することが僕の夢だった。
NBAドラフトにおいて日本人で初めて1巡目指名された八村塁選手の中学時代のコーチ・坂本穣治さんの言葉です。
野球少年だった八村選手を仲の良い同級生がバスケットボールに誘ったことからこの物語は始まりました。ボールを片手で握ることができる八村選手の潜在能力に驚いた坂本コーチは、「お前はNBAに行ける! NBAを目指せ!」と八村選手を鼓舞しました。そこから始まった夢物語を、この日ついに八村選手は叶えたのです。アメリカにいる八村選手からかかってきた電話を切った後、坂本コーチは涙をこぼしながらこうコメントしました。
「すごい話だよね。NBA行けって、僕の夢でもあるよ、って言ってたんだけど、僕の夢っていうよりは、彼の成長することが僕の夢だった。そんな気がします。」
坂本コーチにとって、八村選手が成長を続けること自体がドキドキワクワクの夢の途中だったのでしょう。そしてさらにその先には、彼がNBAで大活躍するという夢の続きが待っています。同級生やコーチに支えられてここまで来た八村選手も、インタビューでこう答えています。「あの人たちのおかげで僕がここにいられると思う。」なんとも泣かせる話ではありませんか! 八村選手の成長とともに、私も一緒に夢を見させてもらおうと思います!
文章は、用いる言葉の選択で決まる
共和政ローマ期の政治家カエサルは、優れた文筆家としても有名でした。また彼は軍人としても「カエサルは、ただの一語で兵士達の気分を逆転させた」とも言われる雄弁家でした。
「文章は、用いる言葉の選択で決まる」とは一見ごくごく当たり前のことのように見えます。にもかかわらず言葉の選択というのは簡単ではありません。最近でも政治家の失言がいくつも問題となっていますが、選択する言葉に間違いがあったケースもしばしばです。いつどんな場面でどんな言葉を用いるか? そこにその人の思想や情熱が現れるからこそ、人を奮い立たせることもあれば憤らせることもあるのです。特に我々政治家は言葉をもって国民に行くべき道を示す仕事です。一語一語を丁寧に紡いで、心ある発信を心掛けたいと思います。
我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。
令和元年の初日5月1日に、私は家族で宇佐神宮を参拝しました。私の先祖は宇佐神宮の弥勒寺を管理した一族の分家筋です。
宇佐神宮ではかつて、天皇が天皇家以外の血筋に取って代わられる危機(宇佐八幡宮神託事件)がありました。跡継ぎのいない女性天皇の後継として、天皇お気に入りの僧・道鏡が新天皇に即位しようとした事件です。このたくらみは忠臣・和気清麻呂の命がけの行動によって阻止されました。
翻って現在、男性皇族の減少により皇位の安定継承が問題となっていますが、天皇はあくまで皇緒(天皇の血統。血統とは男系の継承を指す)でなければなりません。この原則を違えれば、天皇はもはや天皇ではありません。二千年以上の歴史を持ち、神話につながる日本民族のルーツが途絶えてしまいます。この危機を救うのが令和の世を生きる私の使命だと確信し、宇佐神宮のご加護を祈りに参ったのです。
言葉にして表現するというのは、目標に近づく一つの方法
日米通算4367安打を記録した大リーガー・イチロー選手の引退会見でのコメントです。
イチロー選手は50歳まで現役を続けることを公言してきました。それを叶えることはできませんでしたが、言葉に出してきたからこそここまで頑張ることができたとコメントしています。イチロー選手は出場機会を失ってからも自分を律し、再びグラウンドに立てるコンディションを整え続けました。それは心身ともに苦しい時間だったに違いありません。その時間を懸命にやりきったことこそが、どんな記録よりも自分にとって誇りであるということもコメントしています。やりきる意志を支えたのが「言葉にする」という行為だったと思います。
私の名前は「誠」です。言ったことを成すと書きます。いったん言葉にすれば、実現に向けて行動しなければなりません。言ったことを成してこそ誠とも言えるでしょうし、成そうとすることそのものが誠であるとも言えるでしょう。言ってみせる、やってみせる、名前に負けない自分でありたいと思います。
ヒントはいつも問題の中にある
私の高校の先輩が、受験生を持つお母さんに対してSNSでコメントした励ましの言葉です。
「ヒントはいつも問題の中にある」とは、ひとつの受験テクニックと言えるかもしれません。入試問題という閉じられた空間の中では、問題が問う範囲外から答えは出ないからです。そういう意味では、受験の先輩が受験生の母に送った受験格言であったと言えるでしょう。
しかし一方で、受験という人生の一大チャレンジに対し迷い苦しみ挑む親子に対し、挑戦の果てには栄光があるということを伝えた人生の先輩としてのメッセージであると、私は感じました。 長い人生、もっと厳しく困難な挑戦がいくつも現れるでしょう。そんな時に答えを探す人生の知恵を、先輩が与えてくれている気がするのです。
死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
何度もお言葉をお借りして恐縮ですが、またしても吉田松陰先生のことばです。
意味は解説するまでもないでしょう。自分の命に価値を求めるなら、命を捨てる覚悟が必要なこともあれば、どんなに苦しくとも生き抜く執念が必要なこともあるのです。
自分が生きるか死ぬかは勘定の外で、その命をどう燃やすことが世のためになるのかが重要なのです。
鍛錬は千日の行、勝負は一瞬の行
徳島県の山あいの高校を3回日本一に導いた名将・蔦文也監督の言葉です。
千日鍛錬して臨んでも、勝負は一瞬にして結論が出てしまいます。実力が発揮できないまま敗れることもあれば、思わぬ幸運でおさめる勝利もあります。目標達成のためには千日もの努力が必要だけど、千日努力しても一瞬の運で栄冠を逃す残酷さが勝負の世界にはあります。名将はそうした勝負の機微を知り尽くしたうえで、この言葉にたどり着いたのでしょう。
甲子園も受験も同じです。勝負の一瞬、この一瞬を勝ち抜くために千日の鍛錬をやってきたわけです。一瞬のために千日の鍛錬を重ね、千日の鍛錬に報いるためにその一瞬で力を出し切るのです。千日の行、一瞬の行、その両方を成し遂げられた者に勝利が与えられるのです。今年勝負に挑むあなたへ、激励の気持ちを込めてこの言葉を送りたいと思います。
助からないと思っても助かっている
一般棋戦優勝44回(歴代1位)、通算1433勝(歴代1位)などの記録を持つ昭和の将棋棋士・大山康晴さんの言葉です。
先の先を読む棋士は、この先助かる道があるものか否かは、概ねわかっていることでしょう。
「もうダメだ。助からない…」そう思うのは人間の主観です。しかし、そうした人智を超えたところに助かる道が隠れているのです。もうダメだと諦めてしまうのは自分自身であり、諦めずにじっと堪えていれば一筋の光明を見出すことができるのです。
「助からないと思っても助かっている。」絶望的な状況でも、魔法の言葉のように自分に言い聞かせようと思います。
お金を集めるところから、冒険は始まる
富士山の清掃活動でも有名なアルピニスト野口健さんは、学生時代から海外の山に挑戦していました。しかし学生にとって海外登山は簡単なことではなく、それを実現するには遠征資金を獲得するところから活動が必要となりました。
政治の世界でも同じだなあと思わされます。高い理想を実現するためにも、目の前の活動資金をどう工面するかをクリアしなければなりません。その努力を経ずして理想を唱えるだけでは、できることに限りがあるのです。事務所を借り、秘書を雇い、車にガソリンを入れ、ポスターやチラシを作る…どれもタダではありません。お金のお願いは心苦しく気が重いことですが、目指す山頂にたどり着くためにも「ご協力をお願いします!」と熱意をもって頭を下げることが必要です。
このプロセスもまた冒険の大事な一部分なのです。
処世の秘訣は誠の一字だ
大河ドラマの影響で西郷どんブームの昨今です。鹿児島で高校時代を過ごした私も大の西郷どんファンです。
そんな中、西郷どんと共に江戸城の無血開城を果たした勝海舟にも私の興味関心が向かっています。べらんめえ口調で世相を斬る勝海舟の聞き書き「氷川清話(講談社学術文庫版)」の最後は、この言葉で締めくくられています。自分を斬りに来た坂本龍馬を手なずけてしまう勝海舟の度量の大きさには感服します。世の中の人が自分をどう評価しようと関係ない、あるのは自分の誠心誠意だけだという心意気溢れる一文をご紹介します。
「世間の人はややもすると、芳を千載に遺すとか、臭を万世に流すとかいつて、それを出処進退の標準にするが、そんなけちな了見で何が出来るものか。男児世に処する、ただ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ」
誹りは信念の肥やしにする
月刊致知から拾ってきた高田好胤師のお言葉シリーズも今月で第三弾です。
人から受けた誹りも、信念の肥やしにするのだとおっしゃっています。
信念とは、他人の常識からは外れているからこそ信念です。人が言うこと、みんなが思うことと同じでは、信念だというほどの価値もありません。
しかし、常識外れなことを主張すれば世の中からは誹られます。しかしその誹りも自分の成長に変えてしまうと言うのです。
どうすれば他人から誹られたことを自分の肥やしにできるのでしょう? それには自分に向けられた非難の言葉を受け入れ、咀嚼する度量が必要でしょう。大きな器で受け入れて、噛んで含んで飲み込んで、さらに大きな自分になっていくのです。
君の観念と僕の信念の競争やな
法相宗管長 薬師寺住職であられた高田好胤師のお言葉です。友人が毎月プレゼントしてくれる月刊致知の6月号に、好胤師の素晴らしい金言がたくさん散りばめられていました。先月に続いて再び好胤師の言葉を掲載させていただきます。
好胤師は薬師寺の金堂復興という大変な役割を担い、その資金調達などの課題を抱えていました。そうした中で写経勧進によってお堂の建立資金をまかなおうというアイディアを実行されました。手間はかかるし実入りは小さいこの取り組み…「お経でお堂が建つものか!」と笑われ誹られる日々でした。そんな心無い声に対し「お経でお堂が建たないと思うのは君の観念や。僕はお経でお堂を建てるという信念がある。君の観念と僕の信念との競争やな。」とほほ笑んで応えたと言います。
本当に信念を持って歩んでいる人は、えてして「そんなことできるわけがない!」と笑われるものです。しかしどんな批判にもひるまず信念を貫くことが肝要ですし、揺らぐことが無いからこそ信念なのです。好胤師は笑われても誹られてもブレることなく、「不可能だ」という思い込みと競争してみせたのです。
苦労と仲良くすれば、いつかきっと苦労が味方になって助けてくれる
法相宗管長 薬師寺住職であられた高田好胤師のお言葉です。友人が毎月プレゼントしてくれる月刊致知の2018年6月号に、好胤師長女 都耶子さんのインタビュー記事がありました。4ページくらいの文量でしたが、そこには素晴らしい金言がたくさん散りばめられていました。そのうちのひとつがこの言葉です。
誰にとっても苦労は苦痛でしかなく、それをプラスに変えるという考え方には大なり小なり無理があります。また逃げようにも逃げられない苦労もあるでしょう。そんな苦労に対し「仲良くする」という接し方があるのか! というのが、まずもって驚きでした。そして将来その苦労が自分を助けてくれるというのです。どんなに苦しい時も笑顔を絶やさずに真摯に課題に向き合えば、いつかきっとその積み上げが自分自身を助けてくれる日が来るのでしょう。
そう思えば苦労も悪くありません。笑顔で努力を積んで乗り越えましょう!
これより天下のことを知る時は、会計もっとも大事なり
新しい国を作る時、坂本龍馬は土佐の重臣・後藤象二郎に手紙を書きました。財政担当には、会計に精通している福井藩士・三岡八郎(由利公正/後の東京都知事)を採用すべしと。
現在、国会においても来年度以降の財政政策の在り方についての議論が続いています。自民党では平成30年度「骨太の方針」の中で財政健全化目標について言及すべく、党内議論がおおいになされました。
天下国家を語る坂本龍馬が「会計もっとも大事」と述べたとは意外な気もします。しかし実際に国家を動かし、持続可能ならしめるものはやはりお金なのです。持続可能な財政と社会保障を構築するために、あらためて会計というものを基礎から見直し、収支構造の改革に取り組んでいきたいと思います。
一歩前進
私が小学生の頃、学級目標として掲げられていた言葉です。
名言や格言ではないのですが、最近私が日々つぶやいている言葉です。
昨年の解散総選挙での苦戦以降、鬼木事務所は態勢の立て直しが迫られていました。いつ解散があるかわからない衆議院は常在戦場です。選挙が終わったばかりとはいえ、いち早く臨戦態勢を整えなければなりません。しかし焦る気持ちとは裏腹に、課題の克服は一向に進みません。そんな時に思うのがこの言葉です。昨日より今日、今日より明日、一歩だけでも前進しよう。一週間経ってみて、一歩だけでも前に進んでいるように、具体的に答えを出していこう。そう思って日々に取り組んでいます。
将棋の歩は前にしか進めません。一回で一コマしか進めません。しかしその愚直な歩みも、ひとたび敵陣に入れば「と金」となり、自在に活躍することができるようになります。一歩、一歩、また一歩。地道であっても前に進むことが大事だと自分に言い聞かせる日々です。
正直この町、何もないよね。小さい頃はここにいたら夢は叶わないんじゃないかと思ってました。でも今は、この町じゃなきゃ夢は叶わなかったと思います
さまざまな感動を与えてくれた平昌冬季オリンピック・パラリンピックですが、私が最も感動したのがこの場面です。カーリングで日本初のメダルを獲得したLS北見の選手達が地元に凱旋した際、吉田知那美選手が放ったのがこの言葉です。「正直この町、何もないよね~」という言葉に一瞬会場は凍りつきました。
しかし次の瞬間、会場は感動に包まれました。私もテレビでこの場面を見て、感動で涙が出ました。今思い出してもウルっときます。北の小さな町で仲間と共に夢を追いかけ、そして叶えた。その背景と苦労を知るほど、感動が増します。地方で暮らす、仲間と過ごす、夢を追う、多くの日本人に勇気を与えた言葉ではなかったでしょうか。
吉田知那美選手は「正直この町、何にもないよね」と会場を笑わせた後、「(私も)この町にいても絶対夢はかなわないと思っていた。だけど、今はこの町にいなかったら夢はかなわなかったな、と思う」と涙声に。会場に集まった大勢の子どもたちを見つめながら、「たくさん夢はあると思うけど、大切な仲間や家族がいれば、夢はかなう。場所なんて関係ない」と力強く語り、場内から大きな拍手が送られた。
新しい酒は新しい革袋に盛れ
新しい思想や価値観を表現するためには、それに適した新しい形式や受け手の心構えが必要になってくるということ
先月、福岡大学の花嶋正孝名誉教授の瑞宝中授章の叙勲お祝いがありました。花嶋教授は、世界で評価の高い廃棄物処理方法を考案しました。その技術は「FUKUOKA方式」と呼ばれ、特にアジアの発展途上国の環境改善に貢献しました。花嶋教授はもともと土木の研究者でしたが、福岡大学に着任するにあたって新しい分野の研究をしようと考えたことがFUKUOKA方式の誕生につながりました。その時に先生の頭に浮かんだのがこの言葉だったそうです。衆議院三期目を迎えた私も、古い価値観にとらわれず新しい発想を新しい表現で世に問うていくことが必要ところにきているなあと感じている日々です。
困らなきゃダメです。人間というのは困ることだ。絶体絶命のときに出る力が本当の力なんだ。
ホンダの創業者・本田宗一郎さんは、「困る」ということを取り上げた名言を数々 残しておられます。
それだけ本田氏の人生が平坦ではなかったことや、困難を乗り越えて成長してきたことを表しています。
私も昨年、12年間一緒に政治に取り組んできた秘書を失い、右腕をもがれたような苦しみがあります。
しかしこの絶体絶命のときに出る力こそが本当の力だと肝に銘じ、乗り越えていきたいと思います。
和顔施(わげんせ)
仏教用語で、地位や財産がなくても心掛けひとつで誰でも簡単にできる布施のことを「無財の七施」と言います。その七つの布施(眼施・和顔施・愛語施・身施・心施・牀座施・房舎施)のうちのひとつが「和顔施」です。その意味は「人に対して笑顔で優しく接すること」。昨年末に私が亡くした秘書も、いつも笑顔でした。多くの方から「いつも笑顔で来てくれよったもんね。」と惜しむお言葉をいただきました。
笑顔でいる。ただそれだけのことで、人は人を幸せにできるのです。自分が生きた証として、皆の脳裏に笑顔がよみがえるような生き方を心掛けたいと思う年頭です。
(横綱は)頂上であって同時に崖っぷち
人の世は、登山に似ていると言われます。高みに迫るほどそこから見える景色は素晴らしくなるものの、登りつめるほど道は険しくなります。
横綱は角界最高の地位です。それだけに責任が重くなります。負けることが許されず、負け越せば引退を迫られます。相撲の内容も問われ、土俵の外でも行動に品格が求められます。頂上でありながら崖っぷちという場所に置かれた重圧はいかばかりでしょう。
政治の世界も相撲の世界によく似ています。頂点に近づくほど厳しい風圧にさらされますが、その責任に耐えてこそ大横綱になりうるのだと思います。私などはまだまだですが、しっかりと「三年先の稽古」を積んで日々鍛錬したいと思います。
できると思ったら、できる!
今月のことばは著名な誰かの言葉ではなく、私が最近よく思うことです。
実現したいと思っていることが叶うかどうかは、自分自身が「できる!」と思っているかどうかにかかっていると思うのです。
例えば、陸上の桐生祥秀選手が100m走で日本人初の9秒台を記録しました。2013年に10秒01を出して以来、できる!できる!と挑み続けての実現です。「日本人にだって9秒台は出せる!」、桐生選手の活躍は他の日本人選手にも刺激を与えました。これからは次々と日本人選手が9秒台で走るようになるのではないでしょうか。
ラグビー日本代表だって「南アフリカに勝つなんてムリ!」と諦めていては、あの逆転劇は起こらなかったでしょう。努力と実績を積み上げること、そして「できる!」と信じること。夢を叶えるには、自分こそが自分を信じていなければならないのです。
結果は大事だけどなあ、人に伝わるのは結果だけじゃない
先月に引き続き将棋ネタで恐縮です。映画「3月のライオン」で、主人公の桐山零に高校の教師である林田先生がかけた言葉です。
零はお世話になった家族のトラブルに対し力になりたいと張り切りましたが、思ったように結果が出ませんでした。うまく結果が出なかったことで落ち込む零に林田先生がかけた言葉が「結果は大事だけどなあ、人に伝わるのは結果だけじゃない。」でした。
私も政治に携わっていると様々な陳情・要望を受けます。できることもあればできないこともあり、全く結果が出ないことも少なくありません。できないはずのことを無理やりできるようにしてしまうことがいいとは思えないこともあります。そんな時は丁寧にお断りをすることになります。「鬼木は融通が利かないなあ」「鬼木は政治力がないなあ」そうした評価になるのも覚悟のうえです。それはこれからも変わりません。要望は誠実に受け止め、誠実に回答する。結果が悪くても、伝わるのは結果だけではないと信じて。
人生も、将棋も、
勝負はつねに
負けた地点からはじまる。
7月2日は歴史的敗北の日となりました。
東京都議選の自民党獲得議席が、過去最少の38を大きく下回る23。国会議員の不祥事や暴言などが続いたことで、都民による自民党への厳しい審判が下されました。
時を同じくして7月2日。将棋界において連勝記録を打ち立てた藤井聡太四段が、デビュー以来公式戦初黒星を喫しました。
「神武以来の天才」と言われ、藤井四段を後継者として期待している加藤一二三 九段は、この敗戦に対して温かい激励の言葉を投げかけました。
「将棋も、人生も、
勝負はつねに
負けた地点からはじまる」
自民党が歴史的大敗を喫した直後の言葉なので、なおさら私にとっても感じ入る言葉となりました。なぜ負けたのか? 何を反省し、どう立て直すのか? 負けた地点から人生ははじまるのです。敗北を人のせいにせず、自らのはじまりの第一歩として頑張ろうと思います。
千里の目を窮めんと欲して 更に登る一層の楼
この言葉の原典は中国の漢詩です。黄河の雄大な風景を楼閣の上から眺めて詠まれたものとされています。
福岡が生んだ政治家・中野正剛先生が、自決直前に子息に書き遺した書がこの詩だったそうです。
また、前福岡市議会議員の妹尾俊見さんが叙勲のお祝いにあたって私にくれたメッセージに、この言葉が記してありました。
より遠くを見通すために、より高みを目指して研鑽を積まねばならないということです。
郷土の素晴らしい先輩方が遺した言葉を引き継いで、千里の目を窮めるべく精進を重ねたいと思います。
人は自分の見たいものしか見ない
国会は国のルールを作るのが仕事なので、日々様々な重要会議が繰り広げられています。
そこでは賛否が激しくぶつかり合う議論もあります。議論のスタートから両者の事実認識が異なっているもの、議論の終盤まで同じような論理展開でも最後の結論が正反対であるもの、議論がねじれの位置にありいつまで話し合っても交わらないもの、いろんなパターンがありますが、落とし所が見つからない議論をたくさん見てきました。そんな毎日で見つけたのがこの言葉です。
「人は自分の見たいものしか見ない」
結局そうなんです。自分の望む結論、そこに至る論理、皆がそこに固執して議論しているのです。だからそれと相容れない考え方の人とは議論がかみ合わないのです。良いとか悪いとかでなく、カエサルの時代から人類はそうなのです。テレビも新聞も本もインターネットもそうです。みんな自分の伝えたいことだけを伝え、みんな自分の欲しい情報だけを手に取るのです。
真に知的な態度とは、先入観や自分の立場・都合にとらわれず、正しく目的を設定し正しくそこに向かう姿勢です。カエサルはそうした人間の本質というものを熟知しながら、目的を達成してきたのでしょう。
私も国会の議論において、己を勘定に入れず、筋の通った議論で、正しい結論を導く役割を果たしていきたいものです。
寛と厳([かん]と[げん])
私の恩師である森田修学館の初代館長 森田譲康先生が、職員室に毛筆の手書きで貼っていた言葉が「寛厳」でした。「これはどういう意味ですか? 何と読むのですか?」と私が聞くと、「[かん]と[げん]。子供には寛容な心と厳しい態度との両方を持って接しなければならないということ。寛大過ぎてもわがまま放題になってしまうし、厳し過ぎても萎縮してしまう。おおらかに育てながら、締めるべきところは締めるのが教育の要諦なのだよ。」ということをおっしゃいました。
当時は、教育の話であり、子供に対する大人の態度の話として聞いていましたが、最近になって政治の世界にも通じる深い言葉だなあと感じるようになってきました。
近年、ポピュリズムが幅を利かせ、国民に媚びる政治がウケているように思います。それは子供に好かれようと子供の要求する通りに物を与え子供に媚びる大人の姿に似ています。大人の態度として必要なのは、真に子供の将来を考え、時には厳しい言葉で叱ってでも正しい方向へ導く態度です。政治もまた然り。世論に迎合して国民を甘やかし国をダメにする政治ではなく、時には厳しい態度を持ってでも未来に責任を持つ政治が必要です。
人はそれぞれ「正義」があって 争いあうのは仕方ないのかもしれない
だけど僕の「正義」がきっと 彼を傷つけていたんだね
今月の政治塾での演題にもあるように、政治の場では賛否の割れる問題が多々あります。財政は拡大したほうがいいのか? 縮小したほうがいいのか? そうした問題ひとつを取っても方針をまとめることは容易ではありません。
しかし政治は現実世界に答えを出すのが仕事ですから、期限までに明確な結論を出す場面があります。
そうした時、それぞれの信念と信念がぶつかり合って、大激論となることがあります。お互い自分が正しいと信じているわけですから、自分の意見を否定されれば面白いはずがありません。それは議論であって喧嘩ではないのですが、感情のしこりを残すこともままあるようです。
自分の信念は絶対の真実ではないし、正論を主張することは人を傷つけることもある。そのことをわかったうえで、自分の正義を疑うことや、相手の気持ちを理解しようとする態度が必要です。
しかし国民の代表である以上、事なかれ主義で黙っていては本分を果たすことができません。やはり主張すべき信念は主張せねばならないと思うのです。
生き方は、愛情の表現である
私が銀行員時代に担当させていただいた会社の社長さんが言っていた言葉です。人がどう生きるかは、そこにその人の価値観が表れます。なかでも、その人が何を愛し、どう愛しているかが表れるとおっしゃいます。
「お前は政治をして何をしたいのか? どんな世の中にしたいと思っているのか? もっと堂々と発信しろよ! 何を愛しているからそのために何をするのか? そのことをしっかり訴えられたら、みんなきっと応援してくれるよ」
私が何を愛し、そのために何をしようとしているのか、言葉だけでなく生き方で表現しなさいという激励です。
私はいわゆるパフォーマンスというものが好きではありません。嘘や虚飾を感じるからです。しかしこの言葉を聞いて、表現というのは派手に振る舞うことだけではないのだと思いました。
生き方が不器用であっても伝えられるものがあると思います。伝えるものは「愛情」、その手段は「生き方」、噛めば噛むほど味わい深い言葉だと思います。
準備が自信を作る
2015年のラグビーワールドカップで日本が南アフリカに勝利した時の監督がエディ=ジョーンズです。あの勝利から一年以上が過ぎ、早くも今年は2017年。2019年のワールドカップ日本大会まであと1000日を切りました。
「準備が自信を作る」とはその通りだと思います。衆議院の解散もいつあるか分からないからこそ準備が大切です。準備が十分なら有事の際にも自信を持って即応できます。準備ができていなければ、慌てふためいて混乱に陥ります。準備が大事なのです。
ジャパンが南アフリカから決勝トライを奪ったシーンのように、全ての準備が自信につながり、自信が信念となって結果を生み出すのです。
社交の秘訣は、真実を語らないということではない。真実を語ることによってさえも、相手を怒らせないようにする技術である。
11月の下旬から税制調査会の議論がスタートしました。
税金とは誰にとっても嬉しくないもので、できることなら減らしてほしいというのが万人の本音です。そんな声をも反映した意見が続出する中、財政規律に厳しい私はディスカウント一辺倒の意見を一喝します。
真実とは、正論とは、それが的を射ていればいるほど、言われた側は腹が立つものです。正論でありながら相手を怒らせない言い方とは、まさに高度な技術によって成り立ちます。
真実を語らねばならない、しかし相手を怒らせてはならない。この二律背反を克服できる技術のある政治家になりたいものです。
大きなことをする必要はないのです。小さなことに大きな愛をこめればいいのです。
大学の卒業旅行で、私はインドに行きました。最終目的地・カルカッタにあったマザーテレサの施設にまで押しかけ、マザー本人に会うことができました。私は興奮して「私は将来政治家になって、世界を平和にしたいんだ!」ということをまくしたてました。女史はほとんど私の話には耳を傾けず、静かに両手を合わせて去って行きました。彼女にとって私は次々にやって来るミーハー日本人観光客の一人なのだな、と悲しい気持ちになりました。
今でもあの時のことを思い出します。あの頃の私は野心的で、大きなことをしたいと思っていました。しかしそれは私のエゴでひとりよがりだったのです。大きなことをしたい? その目的は何なのか? 本当に大事なことは、為すことの大小ではないのです。マザーの人生は、「小さなことに大きな愛をこめる」日々だったのです。政治家であるならそのことをなおさら意識すべきだと自戒します。実績を残してやろう、足跡を残してやろうといった我欲を捨て、真に世の中の役に立つ仕事をしたいものです。
馬鹿じゃできない 利口じゃできぬ、中途半端じゃ尚更できぬ
政治家の心得を先輩議員が説いていた際に出てきた言葉です。
政治家は世の中のあらゆる事象に通じていなければならないので、馬鹿では務まりません。しかし正論ばかりを言っていてもその通りにはならないのが世の中なので、理屈ばかりを通そうとする利口な人も政治には向いていません。
かと言って馬鹿にも利口にもなりきれない覚悟の人では尚更できないのが政治です。「先輩、いいこと言うなあ」と思い、言葉の出どころを探ってみると、村田英雄さんが唄った演歌の一節でした。
それが人の世なのだなあと思うと同時に、人の世が政治そのものなんだよなあという思いを強くしました。
天は自ら助くる者を助く(God helps those who help themselves.)
ラテン語で記された古いことわざであり、サミュエル=スマイルズが「自助論(Self-help)」の中で記したとされる言葉です。天は、他人に頼らず自ら努力する者を助けて幸福を与える、という意味です。他人への依存を排し、成功のためにはまず自分自身が努力することが必要だということを説いています。
日本のことわざで言うと「働かざる者、食うべからず」という言葉があります。これもまた「自助努力なき者には手にする果実はない」ということを示した言葉ですが、食うべからずという表現が厳しすぎて、現代日本のリベラル世論の中では容易に受け入れられなくなってきている感があります。
その点、この言葉はうまくできています。「努力しない人は食べられない」ではなく、「努力する人が食べられる」という論理構成になっています。またその結果をもたらすのがGod(もしくはHeaven)だというのです。これまた文句のつけようがありません。
何が悪い、誰が悪いと、人のせいにばかりして口を開けていても、何ひとつ成果を手にすることはできません。大事なのは、今自分にできることを精一杯やることです。自らの幸せのためには自ら努力することが肝要なのです。
また会えるよ 約束しなくても
スピッツの楽曲「魔法のコトバ」中のサビのフレーズです。
スピッツの歌詞は素晴らしいものがたくさんありますが、特にこの一節は秀逸です。人生にはいくつもの節目があり、出会いや別れがあります。しばしお別れ…という感傷的な場面で、「また会えるよ、約束しなくても」という言葉は、別れのせつなさと再会の希望とを爽やかに表現しています。
「また会おうね」と不確かな約束するよりも、「また会えるよ」と告げるほうが心がつながりあっているような確かさを感じさせます。大臣政務官として302日間務めた環境省を去るのはたいへん寂しいものでしたが、世界の様々なフィールドで環境省の仲間たちと再び共に仕事をする日が来ると信じて、「また会えるよ」と告げたいと思います。
子供の頃から、人に笑われてきたことを常に達成してきた
やはり「今月のことば」はこの人しかないでしょう!
2016年6月15日に、大リーグ・マイアミマーリンズのイチロー選手が日米通算4257安打を達成しました。これはピートローズが持つ大リーグ最多安打を超える数字です。(日米通算と単純比較できないところが残念ですが、イチロー選手の偉大さは少しもかげるものではありません)
子供の頃からイチロー選手は、自分の信じた道を自分の信じたやり方で歩んできました。その高すぎる目標とそこへ向かおうとする独自のメソッドは、周囲のもの笑いのタネにされたことでしょう。
「常に人に笑われてきた悔しい歴史が、僕の中にはある」(同日のイチロー選手のことば)
イチロー選手の言う悔しい気持ちが、私には痛いほどわかるんです。世界を平和にするため政治家になる! と公言していた少年時代。一介のサラリーマンから裸一貫で県議会に出馬した浪人時代。思えば私も、悔しい思いをしながら、誰もが無理だと言うことを叶えてきたように思います。
「そんなんじゃお前には無理!」みたいなことを簡単に言う人はたくさんいます。でも人生は、人の評価のためにあるものではありません。適当なことを言う人のことは置いといて、自らの信じる道を自らの信じたやり方で切り拓いていきましょう!
私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまく行かない方法を見つけただけだ
成功への道のりは、挑戦と失敗からできています。
発明などというものは、いまだかつてない技術の開発ですから、失敗があってあたりまえです。ひとつふたつの失敗で諦めていてはものになりません。このやり方がダメならあのやり方……無数にある組み合わせのうち、うまくいかない方法を消しこんでいき、一歩ずつ成功へと近づきます。うまくいかないことは失敗ではなく、成功に至るために必要な礎石なのです。
成功する人とは、ひとつひとつのトライ&エラーを着実に自分の力に変える人なのでしょう。
多くの言葉で少しを語るのではなく、少しの言葉で多くを語りなさい
ギリシアの数学者であり哲学者でもあるピタゴラスの言葉です。
この言葉自体には解釈の説明など必要ないと思われます。政治家にとっても非常に大切な指摘です。テレビが強い情報発信力を持つ今、コメントは短く端的に伝える事が肝要です。また日頃政治家の挨拶を聞く機会の多い私も、中身のない演説ほど長いものだと辟易しています。なのでこの言葉に初めて触れた時、「まったくその通りだ!」と膝を打つ思いでした。
自戒を込めて、「少しの言葉で多くを語るべし」と肝に銘じたいと思います。
泥中の蓮(でいちゅうのはちす)
泥の中に生える蓮の花。けがれた境遇にあってもこれに染まらず、清らかさを保つことのたとえ。
先日、家業を継いで社長に就任した友人から、「一筆、色紙を書いてくれ」と頼まれました。「どんな内容の言葉がいい?」と尋ねたところ「正しく生きろ! みたいな内容がいい」とのことでした。
はてさて、「正しく生きろ」といった趣旨の言葉ってどんなものがあるかな? と探したところ、私の心境にもピタッとはまったのがこの言葉でした。
どんなドロドロの沼の中にあっても、蓮は泥中に根を張って美しい花を咲かせます。汚い世界に染まるなよ、努力してきれいな花を咲かせるんだよ、というメッセージです。
書に向き合う時間は、自分の心と向かい合う時間です。人のために書く時間も、自分の心に向けて書く時間になります。友人に贈ったこの言葉も、自分への戒めとして大事にしたいと思います。
約束とは、自分にするもの
中央区で飲食店を営む私の友人がフェイスブックに書いていた言葉です。出典があるかもしれないとネットで検索してみたところ、類似の言葉が多々ありました。誰が言ったともなく一般的に使われている表現でもあるようです。
日々私達は生活の中で、さまざまな約束を簡単に人と交わします。「こんど飲みに行こうね」といった類の話です。しかしその約束は必ず履行されるとも限りませんし、それが「約束」であるのかも判然としないことはよくあることです。
でも一旦自分の口から出たその言葉を、相手は信じていつまでも待っているかもしれません。飲食店の経営者に「今度食べに行くね」と言っておいていつまでたっても来ない人も、少なくないかもしれません。客が入らない日などは、いつか受け取った軽い口約束がうらめしくてしょうがないこともあるでしょう。言った側は悪気などこれっぽっちもないのでしょうが、期待された約束が履行されないのは罪なことです。いったん自分の口から出た言葉には、行動をもって責任を取らなければいけませんよね。軽い口約束であっても「約束は自分にするもの」だと思って履行しましょう。
この2月、飲食店は厳しかったという話をよく聞きました。私も自分への約束がだいぶ果たせていないと自戒する日々です。
石器時代が終わったのは、石がなくなったからではない
環境大臣政務官をしていますと、日々環境問題について知識が更新されていきます。この言葉は誰が言った言葉かはわかりませんが、最近私が衝撃を受けた言葉です。石がなくなったから石器時代が終わったのではなくて、それを超えるイノベーションが起こったから淘汰されたのです。産業革命によって地球温暖化が引き起こされ、その解決のための技術革新によって古い技術が淘汰される……そんな未来がやってくるのかもしれません。環境を取るか産業を取るかの二択ではなく、環境技術の振興が産業の推進につながるような好循環を作っていきたいと思います。
いかなる義務も、恩を返すより重大なものはない
ローマの政治家であり哲学者であるキケロが「義務について」という著書の中で述べたとされるのがこの言葉です。一昨年に亡くなった私の恩師がこの言葉を常々私に説いて聞かせてくれていたため、私にとっても人生の重要な指針となっている言葉です。
人は誰も、他人との関係の中で生きています。誰からも世話にならずに生きている人など一人もいません。どんなに立派な人も、親から産み育てられ、社会の中で一人前になったのです。どれだけ多くの人の支えの中で私達は生きていることでしょう。恩を返すということが人間にとって最大の義務であるというこの言葉は、たいへん重たいものです。どうすればこの恩に私は報いることができるのか? 自問自答しながら、日々世の中にお返ししていこうと思っています。
あかんかった時も、よかった時も、一緒にいてくれてありがとう。君がいなかったら僕は何もできない。君がいてくれてよかった。
まだラグビーワールドカップの話題を引っ張って恐縮ですが、ラグビー日本代表で今回大活躍したマフィ選手の言葉です。
マフィ選手はトンガ出身。トンガのU-18から代表入りしていた彼は、日本の花園大学をラグビーの名門校と勘違いし(花園ラグビー場と混同したのでしょう)入学、そこで頭角を現し、エディ=ジョーンズ日本代表ヘッドコーチに目を掛けられました。母国トンガ代表になるという選択を捨て、マフィは日本代表として戦うことを決めました。そんな折、マフィ選手は選手生命にもかかわるような大怪我をして入院。夢に見たワールドカップの参加も危ぶまれました。そんな時に支えてくれたのが妻のあずささんです。怪我から復帰したマフィ選手が、しみじみと感謝を込めてあずささんに送ったメールがこの言葉です。
屈強な人がどこまでも強いということはなく、自分一人の力で生きているわけでもありません。人は皆弱さを持っていますし、誰もが人から支えられています。ほんとうに苦しい時に支えてくれる人がいることへの感謝が素直に示されたことばに、私もジーンときました。
今を変えない限り、未来は変えられない
カーワン氏は、世界最強のラグビーチーム・オールブラックスのウイングとして一世を風靡し たスター選手です。引退後、指導者として来日し、日本代表の強化にあたりました。
2015年ラグビーワールドカップ、日本代表の素晴らしい活躍に多くの人々が感動しました。その日本代表で中心選手として活躍したのが五郎丸歩選手です。五郎丸選手は19歳で日本代表に選ばれる才能の持ち主でした。しかしそんな才能がありながらも代表としては伸び悩み、ワールドカップの出場は今回が初めてでした。日本代表で伸び悩んでいた時期にカーワンヘッドコーチから投げかけられたのがこの言葉です。
「過去は変えられない。では未来は?」と問いかけたカーワンコーチに対し、五郎丸は「未来は変えられます」と答えました。しかしカーワンコーチは「未来を変えられると思っていても、今を変えない限り未来は変わらないんだ! 目の前のことを100%やることだけが、未来を変える方法なんだ。それがゴールへの一番の近道なんだ。」と諭されたそうです。 【不動の魂(P158〜P159より)五郎丸歩著 実業之日本社】
五郎丸選手の活躍は華やかで、これまでの歩みも一見、順風満帆にしか見えません。しかし華やかな成功の裏には、失敗も挫折も血の滲むような努力もあったのです。この著書「不動の魂」は、平易な言葉でワールドカップ出場までの歩みが語られています。そしてその後のワールドカップでの活躍……魂の成長があったからこその成功であったと感じます。スポーツに限らず、未来を夢見る人こそ、今を100%やりきりましょう! そこに成長と成功がついてくるのです。
一本のタックルは一本のトライに勝る
ラグビーワールドカップでの日本代表の活躍に、日本中が湧いています。スコットランド戦の前半終了間際、相手ウイングがトライを取ろうとゴールに飛び込んだ瞬間、フルバックの五郎丸選手が横からのタックルでスコットランド選手をタッチラインの外へ弾き飛ばしました。5点の失点を防いだだけでなく、チームの士気を鼓舞する値千金のタックルでした。
ラグビーの試合において、一番得点が大きいのがトライです。5点が入ると同時に、さらに追加の2点がもらえるコンバージョンキックの機会も獲得できます。したがって得点のことだけを考えるなら、チームへの貢献が大きいのはトライをした人ということが言えます。
しかしラグビーの文化はそうではありません。前にボールを投げることができないラグビーでは、後ろへ後ろへと仲間にボールをつないでいきます。ひとつのトライには、そこにいたるまでボールをつないだ何人もの献身努力があったわけです。トライは一人で取るものではない、みんなで勝ち取ったものだ! というのがラグビーの文化なのです。
派手なプレーやパフォーマンスよりも、地道で献身的なプレーこそ尊ばれるのがラグビーです。「一本のタックルは一本のトライに勝る」という言葉をかみしめて観戦すると、ラグビーはより味わい深いものになると思います。
俺は負けたことに対して怒ったことはないんだよ
100年を迎えた全国高校野球選手権大会、この夏もたくさんの感動がありました。全国3,906校の中で負けずに大会を終えることができたのは、優勝校一校のみ。あとの3,905校の球児は、その敗戦を最後に高校野球に別れを告げることになります。負けて終わるという悔しさをほとんど全ての球児が共有するのが高校野球なのかなあ……と思いつつ、私がやっていたラグビーもそうだったなあと、ふと思い出しました。
今年8月に、久しぶりに鹿児島のグラウンドに帰り、ラサール高校ラグビー部の夏合宿に参加しました。
全国から駆け付けたOBが現役高校生と試合をし、ぶつかりあう中で鍛えるのが我が部の伝統です。私以外にも若手や大先輩、たくさんのOBが集まりました。その全てのOBは、高校時代、最後の大会で負けて現役生活を終えました。先輩も後輩も、時を超えて悔しい思いを共有する仲間です。
私の時代に引退した早坂監督がおっしゃっていたのがこの言葉です。「俺は負けたことに対して怒ったことはないんだよ。」誰もが勝つために試合をするにもかかわらず、誰もが負けて最後を迎える。逆説的ですが、そこに学生スポーツの美学があるような気がします。勝つために試合をするにもかかわらず、勝つことそれ自体は真の目的ではない。それが学生スポーツの尊いところだと思います。
勝つために極限まで自分を鍛え、全力を尽くす。その努力と成長こそが真の目的であり教育なのです。あの時先生はなんで怒ったのかなあ……? 敢闘精神に欠けていなかったか? 創意工夫を尽くしたか? 集中力が途切れていないか? 途中で諦めていないか? 体力と技術に劣る私は、気迫が欠けた時にこそ怒られたような気がします。
勝った負けたの結果ではなく、毎日をひたむきに生きられているか? あらためて自分の生き方を振り返ってみたいと思います。
政治は、敵を味方にする仕事よ
第64代福岡県議会議長である加地邦雄県議の、ある日の演説の中に出てきた言葉です。
古来、「誰がこの国を治めるのか?」という統治者決定は、権力闘争そのものでした。例えば戦国時代には、合戦で血を流し、力によって統治者が決まっていました。
しかし民主主義国家において統治者の決定は、選挙によって決着します。人類の長い歴史の中で、無駄に血を流さずに統治者を決める仕組みを作り上げたのが、民主主義であり選挙という制度なのです。したがって選挙や統治機構の人事というものは本質的に戦いという側面を強く持っています。
血は流さない、命までは取られない、だけど、本質的には戦いなのです。権限が集中するポストであればあるほど、そこでの戦いは激しいものとなります。政治を長くやればやるほど、敵もたくさんできてくるという道理です。だからこそ、この「政治は敵を味方にする仕事よ」という言葉には味があり救いがあります。
政治とは「政(まつりごと)を治(おさめる)」と書きます。戦うたびに敵が増えていけば、しまいには政は治められなくなっていきます。「戦いもあるし、敵もできる。でもその敵を味方にすることができれば、長く治めていくことができる。だから無駄に争ってはいけないし、敵の気持ちも尊重しなければならない。それが政治の要諦なのですよ。」ということを端的に教えていただいたような気がします。
親思ふ 心にまさる 親心 今日のおとづれ 何と聞くらん
吉田松陰の辞世の句です。
動乱の幕末、吉田松陰の行動はいつでも文字通り命懸けでした。自分の命さえ惜しいと思わないであろう松陰ですが、処刑される寸前の辞世の句では親より早く亡くなることに感慨を深めています。
「子が親を思う心がどんなに深くても、親が子を思う心はさらに深いものである。親より早く自分が亡くなったと聞けば、親は今日(処刑の日)の訪れをどんな思いで聞くだろうか」と、心を痛めているのです。
先月の「おにきまこと政治塾」の懇親会で参加者から、「福岡には平野國臣、中野正剛、緒方竹虎、広田弘毅と、偉大な志士がいたが、多くの方が非業の最期を遂げた。鬼木さんもそんな立派な政治家になりうる方だと思うので、いろんな圧力の中たいへんだと思うがやり遂げてほしい」というお言葉をいただきました。
当日は珍しく私の父も政治塾に参加していたこともあり、私は思わず「父より早く亡くなる不幸だけはないように頑張りたい」と答えました。
その時に頭をよぎったのがこの句です。
世のために命懸けで働く息子は誉れかもしれませんが、親より先に非業の死を遂げる息子は親不孝でしょう。命を惜しむようでは松陰先生に笑われますが、親不孝にはならないようにしぶとく頑張ります!
花が咲かない寒い日は 下へ下へと根を伸ばし やがて花が咲くだろう
2002年3月末。県議選への挑戦のため私が銀行を退職した際、職場の仲間たちが寄せ書きを作ってくれました。今でもたまに読み返してはジーンとくるのですが、心温まるたくさんの激励の言葉がそこにはありました。
私の将来を心配し、退職を思い留まるよう「辞職願」を長い間保留扱いにしてくれていたY支店長。そのY支店長が寄せ書きに残してくださったのがこの言葉です。銀行を辞めて裸一貫で立候補するのは、誰がどう見ても無謀な挑戦でした。すぐに花が咲くとは思えない挑戦でした。苦労するだろうけど、自分で決めた道ならば、花が咲くまで地道にがんばれ! そんなエールだと思います。
苦労した時代にいただいた言葉は、いつまでも心に響きます。おかげさまで今私は衆議院で仕事をさせていただくようになりましたが、初心を忘れず下へ下へと根を伸ばしたいと思います。
(※高橋選手の言葉としての原典は確認できておりません。寄せ書きに書いていただいたままの表記にて転載させていただいていることをご了承ください。)
思いの縄を断ち切れ
私が大学生の頃、父の後輩にあたる方から聞かせてもらった話です。元になる言葉の出典はわかりませんが、仏教からきている考え方のようです。
「人は皆、自分自身の思いの縄に囚われて生きている。『これをしてはいけない』『あれをしなくてはいけない』そうした決め事で自分を縛って苦しんでいる。この世の中に『こうしなくてはならない』ことなどない。作られた虚構の中で、自分の心が自分を縛ってしまっているのだ。この苦しみから自由になるには、思いの縄を断ち切ることだ。自分を縛っているのは自分自身なのだ。がんじがらめになっている自分の心の縄を断ち切るのもまた自分なのだ」
自分自身が自分を縛って苦しんでいる……みなさん思い当たるふしはありませんか? 苦しい時、行き詰った時、この言葉を思い出してみてください。思いの縄を断ち切った瞬間、肩の力が抜けて楽になることもあると思います。
達観とはいかないまでも、心の負担を軽くする言葉として紹介してみました。
経験なき知識は、知識なき経験に劣る
自民党福岡2区の私の前任者、元自民党副総裁である山崎拓先生がよく使われる言葉です。原典が何か調べていると、イギリスのことわざが出てきました。
「学問なき経験は、経験なき学問にまさる」
Experience without learning is better than learning without experience.
同じことを言っているのですが、私としては聞きなれた山崎先生バージョンでご紹介したいと思います。
先日、高校生の勉強会に参加しました。社会に強い関心を持った、たいへん意識の高い学生たちでした。彼らは「自分たちが大学生や社会人にかなわないのは、学問が足りないからだ!」と考えて学問を探求していました。10年以上学生インターンシップを受け入れてきた私の見方は違っていて、学生が大人にかなわないのは経験が足りないからだと思います。どんなに机上で学問を重ねても、経験がなければ空理空論に終わってしまうのです。経験のない人に「自由に発想しなさい」と言っても、かえって型にはまったものしか出てきません。経験豊富な人のほうが、自由な発想も出てくるのです。
政治の世界も経験が大事です。どんなに完璧そうな理論でも、現場の実態を無視して物事を決めていっては大きな混乱が生じます。理屈があって現場があるのではなく、現場があって理屈があるべきなのです。現実社会の問題を解決するのが政治の役割です。現場を肌で理解した経験が必要です。学者の言う通りにするのがすべて正解ならば、政治家は必要ありません。外国がやることをそのまま真似するのであれば、日本に政治家は必要ありません。現場の経験を踏まえた深い考察の上で、最適解を探す技術こそが政治です。
だからといって私は知識や学問、理論を軽んじるものではありません。経験がより合理的に役立つために、基礎になるのが知識です。知識が経験を豊かに実らせ、経験が知識を補うのです。だから政治家は誰よりも学ばなければならないのです。そして豊かで幅広い経験を通じて、見識を養わなければならないのです。「よく遊び、よく学べ」とはよく言ったものです。知識と経験をどちらも積み上げて、豊かな人格と見識を身に着けたいものです。
敵がいない人は 何もしていない人だ
私の友人であり支持者であるS社長のフェイスブックより引用させていただきました。正確に言えばこの言葉はS社長ではなく先代社長、S社長の御父上の言葉だそうです。一年生の国会議員として過ごした二年間で私が感じていたこととシンクロしたもので、孫引きさせていただきました。
私もこの二年、自民党内で繰り広げられる様々な議論において、誰にも遠慮会釈なく自分の意見を主張してきました。重要論点とは、強い賛成と強い反対が拮抗するから重要な論点となるわけです。左と言う人に対していや右だと言えば角が立ち、敵ができるのも当然の成り行きです。特に党本部での議論は自分よりキャリアのある先輩を相手にしての大立ち回り、そのプレッシャーは相当なものです。
誰にも嫌われたくないなら、何も言わないのが一番です。しかし「私は何をしにここに来たのか?」そう自問した時、「言うべきことは言わなければならない!」と思い到りました。東京の机上において都会の論理で全てのルールが決められていく……そんな現状に対して、地方の声を、現場の声を、暮らしの声を、ルール作りの場に反映させるために、私はここへ来たのではないか? 覚悟を決めて発言を繰り返したこの二年間でありました。
「生意気な一年生だ!」と、敵もできたかもしれません。しかし、「彼の言うことは筋が通っている」「勇気を持ってよく言ったじゃないか!」そう評価してくれる人も現れました。何もしなくて敵がいない人であるよりも、何かを為して評価を恐れない人でありたいと思います。
怒りは敵と思え
私が始めてこの言葉を聞いたのは、自民党税制調査会。野田毅会長が「怒りは敵」とつぶやいた時にハッと思ったのです。
調べてみるとこの言葉、徳川家康の遺訓らしく、「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」という警句でした。
家康が苦労の末天下を取ったのも、徳川家江戸幕府が300年の無事長久を誇ったのも、家康の「堪忍」があったからでしょうか。
「泣くまで待とう」我慢の人・家康らしく、堪えることの大切さを説いた言葉です。
「殺してしまえ」の信長は才気煥発の天才でしたが、怒りによって自らの身を滅ぼしたのではないでしょうか。
政治は権力とも直結するため争うことも多い世界ですが、一時の感情でカッとなって人を傷つければ、その報いはいつか自分に返ってきます。
「怒りは敵と思え」。いつも忘れず自分を戒めたいと思います。
志を立てることは大にして高くすべし。小にして低ければ、小成に安んじて成就しがたし。天下第一等の人とならんと平生志すべし。
「養生訓」を著した福岡藩の儒学者、貝原益軒のことばです。人が大きく成長するための心構えを説いたものだといえます。
小さな志では小さな成功に安んじて、大成することができない。大成するためには、志を高く立てて天下第一等の人となることを常に目指すべきだとしています。
志を立てることの重要性を説く偉人の言葉は多くありますが、天下第一等の人たれ!と鼓舞する言葉は見当たりません。この部分が私が一番気に入っているところです。今年も「天下第一等の人となろう!」という意気で頑張ります!
馬には乗ってみよ 人には添うてみよ
モンゴルで私は馬に乗りました。馬にも一頭一頭個性はあるのでしょうが、おとなしくて賢くて繊細な動物だなと思いました。今年は午年でもありますし、2月に続いて馬に関する言葉を取り上げてみました。このことわざの意味は「馬の個性は乗ってみなければわからない、人の個性も身近に付き合ってみないとわからない」ということでしょう。
政治の世界は人と人とで物事を動かしています。衆議院と参議院、与党と野党、行政と民間、いろんな人たちがぶつかり合って一つの結論を紡ぎ出します。時には激しくぶつかり、また時には優しくなだめながら、着地点を探ります。あの人は嫌い、あの人とはウマが合わない、と言って接触を避けていては、答えを出す作業はままなりません。
こちらが乗るのを嫌がるなら、向こうも乗られるのを嫌がるはずです。とにかく乗ってみようという意気で、まずは近くに寄り添ってみることから始めたいと思います。好き嫌いを言う前に、予断を排して懐に飛び込むことで、前向きな答えを出せるよう日々努めたいと思います。
記事を憎んで 記者を憎まず
私が県議時代に作った故事パロディです。元となった言葉は、言わずと知れた「罪を憎んで 人を憎まず」です。「罪」と「記事」を同列で置き換えたところが皮肉たっぷりであり、「人」と「記者」を置き換えたところにヒューマニズムがあります。
県議時代から私は、メディアの虚偽・捏造・歪曲報道に腸(はらわた)が煮えくり返っていました。しかし現場で懸命に働く記者を(腹が立つことはあっても)憎むことはできませんでした。
記者もまた多くの場合、さまざまな葛藤の中にいるからです。
このたび朝日新聞の誤報が日本の名誉を著しく傷つけたことは、断固許されないことです(それこそ腸が煮えくり返ります)。許されざることではありますが、朝日新聞を皆で叩いて、潰して、溜飲を下げて、それで終わりでいいのでしょうか?
私は違うと思います。首を取るまで叩いて殺すのは、まさにメディアがやってきたことです。そこにはなんの惻隠の情も、優しさも、前向きな生産性もありません。
私はここで敢えて朝日新聞には生きてもがいて懺悔をしてほしいと思います。毀損した日本の名誉を、朝日新聞が命懸けで取り戻してほしいと思います。朝日にはその責任があると思います。
またこの事件を機に、国民にも情報を取り扱うリテラシーを身につけてほしいと思います。度を越した表現の自由で日本国民を不名誉のどん底に叩き落したメディアにどういう裁きをするのかは、まさに国民の選択です。
朝日新聞はこの国民の厳しい審判を甘受し、生まれ変わってほしいと願うばかりです。
伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、お国のためじゃと云えばよい
戦後、保守合同により自由民主党を作った政治家、大野伴睦・自民党初代副総裁を評してうたわれた戯れ歌です。
この大物政治家を口説き落とすための殺し文句が「お国のため」であったということは、それほど国を思う気持ちが強かったというあらわれです。また、「政治は義理と人情だ」という言葉を残した党人らしく、「お国のため」と迫られると断ることができなくなってしまう人情肌の政治家だったようです。
「お国のため」を「大義大義」とする文献も多く見受けられます。多くの国民の利害や国家の行く末を預かる政治においては、「大義」というものがどれだけ大切かということについても考えさせられる言葉です。
私も政治のひとつひとつの節目において、「大義はあるか?」「お国のためになるか?」しっかり噛みしめて行動したいと思います。
野も山も皆一面に弱気なら、阿呆になりて米を買うべし
相場の格言です。相場というと現在では株式投資などが一般的ですが、日本では江戸時代から米の先物取引相場が開かれていました。生産量変動により米価格が乱高下する中で、米相場は保険的な役割を果たしていましたが、そこから派生して米は金融商品として相場の種となってきました。そうした状況下で生まれたのがこの言葉です。
米価格が下落し、市場の誰もが弱気になって売りに走るなら、阿呆になって買うべきだと言っています。相場とは群集心理の表出であり、みんなが下がると思っている間は下がり続けます。したがって下がり続ける時に買うのは損を大きくする行為です。ところが、そんな時にこそ「買い」なのだと、この格言は言うのです。みんながみんな売りの時にこそ、買いにチャンスがあると言うのです。
政治にも同じようなことが言えるのではないでしょうか。誰もが賛同する政策に対して「それはおかしいのではないか?」と異議を掲げる勇気、誰もが反対する政策に対して「それは国家に必要なものだ!」と主張する気概。国民・政治家あげて議論が一方向に流れていきそうな時にこそ、逆ベクトルの言葉が光を放つのです。損をしても、阿呆と笑われても、価値ある一言を発する政治家でありたいと私は思います。
「一発儲けてやろう!」と狙っての逆張りを勧めているのではありません。むしろ、どうみても損するような局面で逆張りできる度胸と信念と勝負勘が、政治家にも必要だと思うのです。
サッカーの尊さは、時間を巻き戻せないことだ
6月から始まったサッカーワールドカップは、いよいよ7月にはフィナーレを迎えます。国家の誇りを背負って4年に一度の戦いに挑む選手たちは、真実に迫る名言を発します。今大会前、前回大会決勝のことを聞かれたオランダ代表のロッベン選手が発したのがこの言葉です。
過去をやり直すことができるのなら、今この瞬間に賭けることの大切さは意味を失うでしょう。二度とやり直しのきかない今だからこそ、尊いのです。サッカー選手の名言は、「サッカー」を「人生」と置き換えてもそのまま通じるものです。彼らにとってサッカーが人生であり、人生がサッカーだからです。
スポーツでも文化でも、その道を極めた人たちの言葉は味わい深く心に沁み渡ります。彼らは今、巻き戻せない時の中で、人生最大の勝負に挑んでいます。私にとっても今この時は、巻き戻しのきかない大事な時。「人生の尊さは、時間を巻き戻せないことだ」と肝に銘じて、日々を真剣に生きたいと思います。
大国を治むるは 小鮮を烹るが如し(たいこくをおさむるは しょうせんをにるがごとし)
中谷元衆議院議員が、今年の書道展に出品する書においてこの言葉を選ばれました。「大きな国を治めることは小魚を煮るようなものだ」という言葉です。
小魚を煮る時にむやみにかきまわしたら頭も尾もバラバラになってしまうように、政治を行う者も不要な干渉をし過ぎないほうがよいということを説いています。
為政者は統治にあたって制度をいじりたくなるものです。思い通りにいかないものほどダイナミックに変革させようと力を入れますが、その扱いは小魚を煮るように丁寧に扱ったほうがよいのです。
高い支持率の安倍政権ですが、そんな時こそこの言葉が味わい深く思われます。小魚をじっくりコトコト煮込むように、丁寧に丁寧に、議論と説明を重ねていきたいと思います。
人の一生は 重き荷を負いて遠き道をゆくが如し、急ぐべからず
天下統一という大事業は、信長と秀吉という才気あふれる人物によって進められました。
しかし統一後の体制維持は難しく、泰平の世は家康によって実現されます。家康は幼少の頃からたいへんな苦労と我慢を重ねてきた人物です。大業を成し遂げるには焦ってはいけないこと、目標に一歩一歩近づいていくこと、天下人・家康の処世訓がこの言葉に表れています。
一年生議員である私も、先を急がず功を焦らず、大きな目標に向かって一歩一歩着実に歩んでいきたいと思います。
国民が欲しがるものではなく 国民に必要となるものを与えよ
現在の自民党幹事長 石破茂さんの言葉だったと記憶しています。(発言の出典が確認できていないので、用いている語句が少々違っているかもしれません)
民主主義において、この言葉は深い意味を持っています。国民が欲しがるものは時として感情的で即物的、目の前の自分の損得であることがあります。そうした中で冷静に将来のことを考え、次世代にも持続可能な社会の仕組みを作っておくことが必要です。
1000兆円を超える日本の借金は、国民が欲しがるものを政治が与え続けてきた結果です。出生率や人口構造から少子高齢社会がやってくるのはわかっていたのに高福祉・低負担の社会保障を作り、借金のツケを次世代に回し、収支バランスの改善を先送りしてきました。その結果が現在の日本財政の厳しさです。これからの日本は本当に大変な崖っぷちにあります。
主権は国民にあります。国民は目先の豊かさを求めます。しかし、国民が欲しがるものをそのまま与えるのが民主主義の解であってはいけないのです。国民の生活や気持ちも斟酌したうえで、将来世代への責任も踏まえて答えを出すのが政治家の仕事なのです。
人生のチャンスは 朝のサイレンとともに 毎日訪れるんだ 毎日がチャンスだ
歌手・BOROさんの「海賊船」という歌の一節です。語尾を少しいじっていますが、意味としてはこういう歌詞です。
毎朝疲れた体を揺り起こし、重たい足取りで仕事に向かっていませんか? 確かに仕事も人生も楽しいことばかりではないし、劇的なチャンスなんてそうそう転がってはいません。ですが、毎朝目覚めることの幸せ、五体満足で元気でいる幸せを思えば、毎日が人生に挑戦できるチャンスではないでしょうか。
毎日がチャンスだという心構えで日々最善を尽くしていれば、きっとチャンスはやってきます。そうしてめぐってきた打席でヒットを放つことができるかどうかは、日々の努力にかかっています。「人生のチャンスはいつめぐってくるかわからない、だからいつでも最善を尽くすんだよ。そうして常に最善を尽くす人に、チャンスがめぐってくるのだよ。」そう言われているようです。
汗馬の労
今年は午年です。馬にまつわる言葉はいろいろありますが、新年に聞いたたくさんの挨拶の中で一番いい言葉だと思ったのがこの言葉です。
汗馬とは馬を走らせて汗をかかせること、汗馬の労とは、馬を駆って戦場で奔走した功労を言います。転じて、物事をうまくまとめるため駆け回る苦労のことも表し、「人のために汗をかく」というニュアンスがあります。
政治という仕事はまさに、人のために汗をかく仕事です。世の中の問題解決のために、現場の声を聴き、現状を調べ、寸暇を惜しんで勉強し、議論の場を作り、答を出すという作業を積み上げます。
しかも世の中の問題とはひとつだけではありません。福祉が大事という人にとっては福祉の優先順位が一番かもしれませんし、経済が大事という人にとっては経済が一番かもしれません。限られた時間の中、無数にある問題の中から同時並行でさまざまな問題解決に駆けずり回ります。体がいくつあっても足りないような毎日ですが、汗馬の労をいとわず頑張りたいと思います。
また汗馬には、汗血馬(血のような汗を流し一日に千里走ったと言われる名馬)のような駿馬という意味もあります。汗馬の労の日々を経て、千里を走る駿馬になれるよう自分を高めていきたいと思います。
我、人に媚びず、富貴を望まず
今年の大河ドラマは「軍師 黒田官兵衛」。福岡の礎を築いた黒田藩の始祖・黒田官兵衛。私の祖先も三奈木黒田藩に仕えており、今年のドラマはおおいに楽しみです。その官兵衛が遺訓に残したとされるのがこの言葉です。
信長、秀吉といった天下人に仕えた官兵衛の人生は、過酷なものであったと思われます。常にギリギリのところを命懸けで生きてきた官兵衛の目には自己の保身に汲々とする者の処世術は、「人に媚び、富貴を望む」ように映ったのでしょう。わざわざこんなことを官兵衛が遺訓としたことも考えさせられることです。よほどその当時、強い者に媚びて多くの石高を手に入れようという風潮が蔓延していたのでしょう。
武士の世界と政治の世界はとてもよく似たところがあります。それだけに官兵衛遺訓は味わい深いものがあります。強い者に媚びない、世論に媚びない、有権者に媚びない。己の出世や富貴を望まず、自分の信念に従い、国家国民の未来のため信じることを行う。それらは全て命懸けの行為ではあるが、それを一貫することが自分の生き方である。
…官兵衛が貫いた生き様を手本に、筋の通った生き方をしたいものです。
大欲は無欲に似たり
この言葉には二つの意味があるようです。
1、大望を抱く者は、小さな利益などを顧みないから、一見無欲のように見える。
2、欲の深い者は、欲のために目がくらんで損を招きやすく、結局無欲と同じ結果になる。
どちらの解釈を採るかで意味が大きく違ってきますが、私は1を採用して「大欲」を良い意味に理解したいと思います。
政治家は権力を扱う仕事です。権力とは塩水を飲むようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く類のものです。そこで政治家は権力の源泉であるポストを欲しがります。役職欲しさに変節する政治家を「大臣病」と皮肉る言葉もあるくらいです。
私はそんな小さな政治家になりたくないなぁと思います。役職を手に入れることに汲々とするよりも、常に自分の信念を貫くような人でありたいと思っています。その信念や働きぶりが認められて任されるようになるのが役職だと思っています。自分の信じるところに基づいて、真に平和で豊かな日本を後世に残すというのが私の大望です。その大いなる意欲がありながら、欲がまったく無いように見える。そうありたいと思うのです。
無用の用
伊吹文明衆議院議長が衆議院一期生の同期会にゲスト参加され、そこで私達にくださった言葉です。「党内外の人に声をかけ、一杯飲む。何か重要な用があるかと言えば特にない。ないけれどそうやって一杯やったことが、将来何かの時に役に立つ。用はないけど用がある。そこに無用の用が生じる。」なるほど、さすが議長。味わい深い言葉です。
11年前、私が会社を辞めて県議選に挑んだ時、孤立無援、ひとりぼっちのスタートでした。そんな中、押っ取り刀で応援にかけつけてくれたのが当仁中の同級生でした。学生時代、受験の妨げになる「悪い友達」として親からはつきあわないように言われていた友達が、人生ここ一番の勝負の時に私を全力で助けてくれたのです。何かの役に立つと思ってやっていることでなくても、それが人生のどこかで役に立つことがある。飲んだり遊んだり、趣味に時間やお金をかけたり、それは無用のようで無用でないのです。経済合理性に合わないものを「無駄遣い」と断罪する風潮がある昨今ですが、一見何の役にも立ちそうにない無駄な時間が人生に豊かさを与えているのではないでしょうか?
ファイト!闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう ファイト!冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ
中島みゆきさんの名曲「ファイト!」の中の一節です。楽曲の中で聴く感動が文字のみで伝わるかは心配ですが、ご存知ない方はぜひ一度聴いてみてください。
闘う者の苦しみは、闘う者にしか分からないものです。作者もきっと悩み苦しみ闘ってきた中で、闘う者の孤独を味わってきたのでしょう。傷ついても痩せこけても冷たい水の中を登っていく魚たちに思いを馳せ、闘う人達へ送るエールがこの唄です。闘わない奴等が笑おうが、闘うこと頑張ることそれ自体に尊さを見出しているのが感動的です。私が言葉を尽くすよりも、ぜひ一度原曲を聴いていただくことをお勧めします。
青は藍より出でて 藍より青し
藍とは染料に使う草の名前ですが、藍草で染めた布は藍よりも鮮やかな青色になります。このことから、弟子が師匠の学識や技術を越えることを例えて言ったのがこの言葉です。またこの故事から派生して、弟子が師匠を越えることで師匠の恩に報いることを「出藍の誉れ」とも言います。
私たちは誰も、自分一人で生まれ成長してきたわけではありません。多くの先人のおかげで命があり、父母家族に育てられ、先生や先輩のおかげで様々な知恵・知識を授かっています。そして、お世話になった方よりさらに大きく成長することで次の世代により豊かなものを残し、世界は豊かになってきたのです。どんなときも自分の味方になってくれた親も、いつかは自分より先に亡くなります。決して越えることができないと思っていた師匠も、年々間違いなく老いていきます。それが見えてきた年齢になってはじめて、大切なのは「越えない」ことではなく「越える」ことだと気付くのです。そこからがまた本当の成長のはじまりです。
先人・先生・先輩への感謝をいつでも忘れず、後ろに続く者たちにより豊かで善いものを残すため、さらに大きく成長したいと思います。
不可能を 微妙にする
私が知り合った飲食店経営の親子、その息子が「お父さんのどこを尊敬しているか?」と聞かれた時の答がこの言葉です。
「私が父を尊敬しているところは、不可能を微妙にするところです。書き入れ時にお客さんがごった返して注文が入りまくった時、『お父さん、こんなに注文入って大丈夫?』と聞くと、『無理じゃないから。微妙にしてやっから。』と答えた父がとんでもなく格好よく見えたんです。」
普通使われる表現は「不可能を可能にする」です。しかし、可能にできるようならもともと不可能ではないわけです。とても不可能な状況に直面した時にどうするのか? そこで人間の底力が問われるのです。不可能なものを微妙な感じで仕上げてしまう! 完璧ではないかもしれないけど、どの客からも不満が出ない! そこに父の偉大さを見たのでしょう。
人生は○か×か、二択では片付かないことが多々あるものです。そこで微妙な感じの解決も必要になるのです。この居酒屋の店主のように、「オヤジ、いい仕事をするなぁ」と観衆を唸らせるような味わいを持ちたいものです。
最大の危機は 勝利の瞬間にある
6月に行われた東京都議選では自民党・公明党の擁立した候補全員が当選し、政権与党の勢いを感じさせる結果となりました。そうした中で今月、参議院議員選挙が行われます。
ナポレオンは「最大の危機は、勝利の瞬間にある」と喝破しました。自民党は都議選の勝利に気を緩めることなく、緊張感をもって参院選に臨まなければなりません。そしてさらにこの参院選に勝利したなら、その瞬間こそが最大の危機となります。この言葉は、決して勝利に驕ってはならないということ、そして勝利の瞬間にはもう次の戦いが始まっていることを示しています。勝って浮かれた瞬間が転落の始まりであり、勝利の瞬間こそ反省と謙虚さをもって次の戦いに備えなければならないのです。
ねじれを解消し、日本を取り戻すための戦いがいよいよ始まります。選挙に勝つことが目的ではなく、日本を取り戻すことが目的であると肝に銘じ、緊張感をもってこの夏を駆け抜けたいと思います。
約束は雲である実行は雨である
砂漠の民にとって、水は生命の維持にかかわる何にも代えがたい大事な資源です。水を求める人々は、どこまでも真っ青な空に雲が現れることを渇望します。雲が現れたなら人々は歓喜し、雨が降ることを待ち望みます。ところが、雲が雨を降らさずに消えたとしたら、人々はどう思うでしょう? 希望は失望となり、歓喜は怒りに変わるでしょう。
人間社会においても同じことが言えます。いたずらに人を喜ばせる口約束は、裏切られた時には怒りに変わります。約束という雲を見せたなら、実行という雨を降らさなければなりません。この夏自民党は、再び公約集(J-FILE)を掲げて参院選に挑みます。約束を果たすことまでをパッケージとした、誠実な公約を国民に示したいと思います。
明日死ぬかのように生きなさい。永遠に生きるかのように学びなさい。
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
国会に送り出していただき100日余りが過ぎましたが、私は一年生議員としてはかなり異例のペースで思い切った発言を連発しています。賛否が大きく割れる問題や、誰も突っ込みたがらない問題など、触れれば命取りになるようなきわどいテーマにも声を挙げています。
一年生議員は誰しも、次の選挙に当選して二期生になりたい、そして長く議員を続けたいと願うものです。しかし二期生になりたいがあまり、思ったことも口にできないようでは本末転倒だと私は思うのです。「やりたいことがあってここに来た。言いたいことを言うためにここに立たせていただいている。俺はstatesmanなのだ!」そう思うと、ものを言わずにはおれないのです。
一期目、じっとおとなしくしていたからといって、二期目、自分が必ず当選する保証などどこにもありません。今与えられた役割は、今果たさなければならないのです! 明日死ぬかのように、今感じた問題に取り組むのです。永遠に生きるかのように、未来に向けた問題に取り組むのです!
仲間が転んでも決して振り返るな。約束した場所でいつの日にかまた会える
バンド「FLYING KIDS」の「汚れた英雄」という曲中にでてくるフレーズです。
私が身を置いている政治の世界では、政治家は選挙の審判に晒されます。その時々に吹く風や相手があっての選挙ですので、選挙結果というのは時に厳しい結果を突き付けられます。私の仲間の中にも、落選の憂き目に遭い、苦しい浪人生活を余儀なくされている者も少なくありません。
幸いなことに私は昨年の挑戦にも勝利させていただきましたが、転んでしまった仲間もいれば、飛び立つことのできなかった仲間もいます。活躍の場を与えてもらっていることへの感謝や謙虚な心を忘れず頑張っていきたいと思います。私だっていつ転ぶかわからない不安定な身。転んだ仲間の面倒をひとつひとつみる余裕もありません。しかし、一足早くその場に立った者として、志を同じくする仲間達に雄々しく前に進む姿を見せていきたいと思います。
この4月、進学や就職などさまざまな人生の転機を迎えた人もいることでしょう。たとえ厳しい挫折を味わったとしても、へこたれずに前を向いていきましょう! くさらずくじけず、自分にできるだけの努力を日々積み上げましょう。今は遠い道のりに見えても、約束した場所でいつの日にか仲間達と会えるはずです。
ならぬ堪忍、するが堪忍
堪忍とは、「こらえてしのぶ」と書きます。つまりグッと我慢することです。「我慢できないくらい頭にくることを耐え忍んでこそ、堪忍なのだ」という意味のことわざです。
2009年7月の総選挙、自民党は諸悪の根源のごとくに叩かれまくりました。民主党が掲げる政策には財源もなく、政権が交代すればどんなに良くないことが日本におこるかをどれだけ説明しても、エキサイトした世論にはかなうべくもありませんでした。案の定、3年3ヶ月の民主党政権は迷走を続け、日本は大きく国益を損ねました。あれほど言ったのにひどいことがおこってしまった……。悔しくて悔しくてなりませんでした。このたび再び自民党が政権に復帰し民主党は野党となりましたが、彼らの国会論戦を聞いていると何の反省も進歩もありません。「古い自民党が無駄遣いばかりしている」という悪口一点張りです。少しは自民党の政策の中身を真面目に勉強して、前向きな論戦ができないものでしょうか? ついつい私も国会で野次を飛ばしたり、悪態をついたりしてしまいます。
そんなある朝。議員宿舎のエレベーターで、まつげの長いかわいらしい少女と一緒になりました。二日連続一緒になったもので、私から声をかけました。「君はどなたのお嬢さん?」と聞くと、某有名野党議員のお嬢さんでした。「政治家の子供はいろいろ大変やろうけど、がんばってね。」と私は言いました。彼女はタッタッタと早足に去って行きました。その後姿を見て、私は胸が締め付けられました。政治の世界は善悪や敵味方もあるけれど、敵にも家族や支持者がある……。あまりひどく傷つけるようなことはしてはいけないなあ……と思いました。許せないこともいろいろありますが、ある種の惻隠の情は忘れてはいけないと思います。
ならぬ堪忍、するが堪忍です。
やるなら今しかねえ!
長渕剛さんの名曲「西新宿の親父の唄」でリフレインされるフレーズです。
昨年12月の総選挙で衆議院に初当選させていただいた私ですが、仮に解散がない場合でも任期はわずか4年です。政党に吹く風次第で極端な結果が出る小選挙区制度の下で、次に私が必ず当選する保証はどこにもありません。そうであるならば、私はこの4年間で自分になしうる全てのことをやり遂げなければなりません。
もちろん長い時間をかけなければできないことも多く、再選のための努力を惜しまないのは言うまでもありませんが、国民の付託を受けてこの場に立たせていただいた以上、日々全力で力を出し切りたいと思っています。
「いつかそのうちに」とか「もう少し経験を積んでから」などと、おとなしく様子を見ている場合ではありません。地方銀行で7年、県議として10年、蓄えてきた経験と国政への問題意識を、今ここで爆発させなければなりません。やるなら今しかないのです。
やるなら今しかねえ
やるなら今しかねえ
66のオヤジの口癖は
やるなら今しかねえ
人生は今の連続です。今を懸命に生きることしかないのです。
ONE FOR ALL,ALL FOR ONE 〜ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために〜
ラグビー精神を表す言葉として有名なフレーズです。
昨年末の総選挙、私は多くの方々のお力を借りて選挙を戦いました。一人の政治家を生み出すためには、想像を絶するほど多くの人の力が必要です。これらお世話になった大勢の方々に、個別に恩返しをすることはとても無理な話です。政治家は公の仕事を通じて公の役に立っていくことが本分です。私個人が受けた大きな恩を、社会全体のために尽くしてお返しするのです。だからこそ私はみなさんから与えていただいたこの立場に驕ることなく、謙虚に献身的に世の中のために頑張っていきたいと思っています。
どんなに犠牲を払おうと、どんな悲劇が待ちうけようと、いかに長く苦しい道程であろうと、我々の目的はただ勝利あるのみである
これまでの私の人生において、最大の、そして命懸けとも言える戦いがはじまろうとしています。
この戦いは、さまざまな人の思いを背負っています。犠牲や悲劇も背負っています。その全てに報いるには、ただ「勝利」しかないのです。一にも二にも、ただ勝利あるのみ。
私の恩師がくれたこの言葉を今月の言葉とし、私の決意表明とさせていただきます。
節義は例えていわば人の体に骨あるがごとし
幕末の志士にして久留米水天宮の神官であった真木和泉のことばです。このことばはさらにこう続きます。
「骨なければ首も正しく上にあることを得ず、手も動くを得ず、足も立つを得ず。されば人は才能ありとても、学問ありとても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけのこと欠かぬなり。」
節義がなければ世に立つこともできないが、節義さえあれば士として十分といいます。それだけ人間の生き方には「節義」というものが大切だと説いています。「節義」を辞書でひけば、「節操を守り、正道をふみ行うこと」とあります。節操と正義、とにもかくにもこれが大事だとした郷土の先人にならい、私も美しい生き様を送りたいものだと思っています。
人にできることが 俺にできんでたまるか
私の尊敬する恩師、森田修学館の館長先生の言葉です。別に格言として用意された言葉ではなく、先生との会話の中で出てきた言葉に感銘を受けた私がすぐさま手帳に書き残したものです。
他人ができることなのに、自分ができない道理はないわけです。他人ができることを自分ができないなんて、悔しくないのか? やればできることなのではないか? 努力が足りないのではないか? 人間には無限の可能性がある、極限に挑むことで大きな壁も乗り越えられる、そうした先生の信念が滲み出た言葉です。
はじめる前からあきらめていることって意外に多くありませんか? でもそれを成し遂げている人がいないわけではない。それなら自分だってできるはずじゃないか! あの人は恵まれているからとか、自分にはこんなハンデがあるからとか、そんな言い訳をする前に、とにかくやってみなきゃ!
「人にできることが俺にできんでたまるか!」まずその気概を持って事に当たれるかどうかなのです。
論語読みの論語知らず
論語とは孔子の教えであり、日本でも古くから道徳規範として学ばれてきました。論語を読んで学んでいるはずの人が、その教えの核心を理解しておらず行動が伴わないことを「論語読みの論語知らず」といいます。机上で学んでいることが実践で活かされないようでは学ぶ意味がありません。
これは政治の世界にも言えることではないでしょうか? どんなに机上で政治の勉強をしても、社会の常識や人情の機微がわからなくては本当に世の中のためになるいい政治はできません。いい政治をするためには社会経験も必要ですし、趣味や遊びやケンカやイジメといった経験も、苦労や苦悩や挫折といった失敗の経験も必要と言えるでしょう。政治だけを学べば政治ができるわけではないのです。
政治とは人間の営みそのものです。人間について学ぶ必要があります。知識も大事ですが、その知識を裏打ちする経験、その経験に裏打ちされた見識が必要なのです。政治をこころざす人達には、ぜひ政治だけでなく幅広い経験と見識を身につけてほしいと思います。
また有権者の皆さんには選挙の際、候補者達の見識の深さについて見抜く目を養ってほしいと思います。
日本一を目指す者が日本一努力するのは当然やろ?
ドラマ「スクールウォーズ」のモデルとなった伏見高校ラグビー部の元監督、山口良治さんの言葉です。
ちょうどこの夏はロンドンオリンピックで世界中が盛り上がっています。極限まで鍛え抜かれたトップアスリートが集まった中で、誰がナンバーワンかを決める戦いは壮絶なものです。金メダルを勝ち取るのはただ一人。残りの全ての競技者は敗北を喫するのです。ナンバーワンになるために、誰にも負けたくないから誰にも負けない努力をするのです。二番でいいとか、負けてもいいという根性では頂点には辿り着きません。そうして頂点を目指し極限の努力を繰り返して、人類は発展してきたのです。
夢を大きく持つことと、大望を叶えるために妥協なく努力することの大切さがこの言葉に凝縮されています。日本一努力した人にしか日本一の栄冠は手に入らないのだよ、努力せずに手に入るものなんかたいして価値あるものではないんだよ、平易な言葉を使われますが、山口先生の言葉には奥深い真理が詰まっています。
君には二つの生き方がある。奇跡など起こらないと信じて生きるか、全てが奇跡だと信じて生きるかだ
人生の中で起こる出来事は、まったく同じ事象をとってもそれをどう受け止めるかは人それぞれです。プラスと受け止める人とマイナスと受け止める人、そこで二つの人生に分かれます。
奇跡は起こらないと断定する希望のない人生か、全ては奇跡なのだと信じる希望に満ちた人生か、どちらが幸せな生き方かは一目瞭然です。心の持ち方ひとつで人生の景色が変わって見えるのです。
この世に生まれ落ちてこうして日々を暮らせていること自体が奇跡でしょう。この奇跡に感動し感謝し一日を大切に生きることができれば、私達の人生は限りなく豊かなものになることでしょう。
道に迷うことは、道を知ることだ
人生は見知らぬ道を行く旅路のようなもので、人は皆、迷いの中で生きています。先が見えない中、誰もが手探りで前に進んでいますが、転んだり道を間違ったりすることもあります。失敗することは嬉しいことではありませんが、「失敗することもあるけど、それは人生を理解することなんだよ」と考えることができれば前向きな気持ちになることができます。
誰だって、失敗しながら成長するものです。道に迷ったとしても、その体験から学ぶことができれば「失敗」は「知恵」に変わります。道に迷う時には大いに迷えばいいのです。とことん悩めばいいのです。その中で自分が見つけたもの、体で覚えた道こそが、人生の財産になっていくのです。長い人生の旅路でたくさん道に迷い、たくさんの道を覚えてきた人こそが、豊かで幸せな人生をおくることができるのだと思います。
恐れず前に進むことの大切さや、経験から学ぶことの大切さをも示唆する含蓄深いことわざです。
泣き言は便所で言え
愚痴をこぼす私に、同僚が言った言葉です。
ぐずぐずめそめそ、そんなこと言ってどうするんだ!
そんな泣き言を人前で言うなんて恥ずかしいぞ!
便所で吐いて流してこい!
シンプルな言葉ですが、実に衝撃的でした。
人生には自分の力ではどうにもならない理不尽がたくさんあります。
それらに対し、愚痴を言ったり人のせいにしても何も解決しません。
悔しいとき、悲しいとき、やりきれない思いは流し去りましょう。
男は黙って自分のやるべきことに全力を尽くすのみです。
夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ
ある方のフェイスブックにて、初めてこの言葉を目にしました。調べてみると、自由人を標榜する高橋歩さんの言葉だそうです。高橋さんが何者かはよく知らないのですが、とにかくこの言葉が気に入りました。
そうだなあ…夢が逃げるわけじゃないよなぁ。
諦めてしまうのは自分自身なんだよなぁ…。
あきらめられない夢があるなら、とことん追いかけるしかありません。叶えたい夢があるのなら、どんなに困難でも全力で挑み続けるしかありません。心が折れそうなときも、あと一歩、もう一歩、頑張ってみる日々…。その先に何があるのか、本当に報われる日は来るのか、そんなことは誰にもわかりません。しかし、ただただ夢に向かって進むのです。
そんな時に救いになるのがこの言葉です。何度も自分に言い聞かせます。夢は逃げないのだ、と。
新年度の始まりに、夢ある全ての人とこの言葉をわかちあいたいと思います。
吾唯足知(われ、ただ足るを知る)
私達が暮らす日本は世界でも有数の豊かな国です。他国と比べれば餓死する人も凍死する人もまれであり、治安も良く、乳幼児の死亡率も低く、最高水準の医療が整備され、平均寿命も世界一です。テレビも車も携帯電話も一家に一台、いや一人に一台以上の割合で持たれ、電気、上下水道、交通インフラも整っています。車も食料品もブランド品も、あらゆる世界の一流品を取り寄せることができます。
この豊かさは、日本の先人の努力の賜物です。私達は日々享受する豊かさに対し、先人の命懸けの努力に思いを馳せたことはあるでしょうか? 感謝の気持ちよりむしろ、不足や不満の思いのほうが先に立っていないでしょうか? 戦後の経済成長以来、モノは豊かになった反面、日本人の心は貧しくなり続けてはいないでしょうか? 豊かになればなるほど不平不満が心を支配していく様子は、遭難した大海で塩水を飲んだ人が、飲むほどに喉が渇くさまによく似ています。
日々生かされていることに感謝の気持ちを持つこと、自分に与えられているものに感謝し足ることを知ること、本当の豊かさは足るを知る心の中にあるのではないでしょうか。
龍となれ 雲自づと来たる
今年は辰年。辰とは龍のことであり、十二支のうち唯一架空の生き物です。稲作文化圏では、龍の出現は雨をもたらす吉兆でした。龍が天に向かって昇るとき、にわかに雲が湧き起こり雨を降らすと云われています。
昇り龍とは、ひとつの仕事に打ち込み道を極めようと努力を重ねる人の姿。ひたむきに頑張る人の周りには、雲が湧き起こるように自然と仲間が集まります。道を極めた人は、その人徳や技能で周囲に恵みをもたらします。「龍となれ」とは、自らを高める努力こそが後天的な運を手繰り寄せる近道であることを示しています。
私の恩師・森田先生もこの言葉を引用され「天下に慈雨をもたらす龍となれ」とおっしゃいました。今年は不平不満や愚痴泣き言を言わず、昇り龍の如くひたむきに精進し、恵みの雨を降らせるようないい仕事をしていきたいと思います。
成就するまで継続する
私が銀行員の頃から付き合いのある九州不動産専門学院さんが発行している雑誌「LICENSE MATE」の表紙に書いてあったことばです。サラッと読んでしまうと「ふーん、そう」と、読み過ごしてしまいそうな言葉です。苦労や挫折の経験がなければ、この言葉の迫力は理解できないかもしれません。
男がひとたび志を立てたならば、そうやすやすと諦めたり投げ出したりするわけにはいきません。薪の上に臥せ、熊の胆を嘗め、石にかじりついてでも成就させねばなりません。厳しい現実、度重なる失敗に心が折れることもあるでしょう。しかし、どんな困難があろうとやり続けるのです。
「成就するまで継続する」とは、言うほど簡単なことではありません。希望の光が見えない中でくじけないことが本当に難しいのです。生き埋めになった地下壕の中、一筋の光も見えず穴を掘り続けるような努力……あと一堀り、あと一堀りで光が見えてくるかもしれない。10000回ダメでヘトヘトになっても、10001回目は何か変わるかもしれない……。
苦しいときに頑張れるかどうかは、希望が持てるかどうかなんだろうな、と思います。日本の復興もこれからです。希望を胸に、やり遂げましょう。
縁あって出会った仲、上機嫌がマナー
参議院議員・山谷えり子さんのホームページにあった言葉がもとになっています。山谷さんのお父さんの信条が「縁あって家族。上機嫌がマナー」だったといいます。これを見て私は「素晴らしい言葉だな」と思うと同時に、「これは家族の間に限った話ではないな」と思ったのです。
人間は社会的動物です。一人きりで生きている人などおらず、誰もが人と人の間で生きています。この世に生まれて出会う人の数も限られています。出会うということ自体が価値ある奇跡です。家族、友人、仕事仲間、ご近所さん…せっかく縁があって知り合った仲のありがたさを知り、一瞬一瞬を大事にすべきです。翻って我が身を振り返ったとき、「私は自分の感情にまかせて不機嫌になることで誰かを不愉快にさせていないだろうか?」と反省しました。
もし今日が人生最後の日だったら、今日やろうとしていることをやりたいと思うか?
先月亡くなったアップル社のカリスマCEOの言葉です。ジョブズ氏は世界有数の経営者としてだけでなく、そのプレゼンテーション能力や遺した言葉の影響力が高く評価されています。
ジョブズは17歳のとき「もしあなたが毎日、これが最後の日と思って生きるなら、いつかきっと正しい道に進むだろう。」という言葉に出会ったといいます。その言葉に感銘を受けて以来、彼は毎日、鏡の中の自分に向き合って自問し続けたのです。「今日していることをやりたいと思うか?」その答えがノーだという日が続くとしたら、何かを変える必要があるとジョブズは言います。
禅を愛していたジョブズには無常観があったようです。「人間が地上で過ごせる時間には限りがある」という考えを持っていたジョブズにとって、今日という日はかけがえの無い貴重なものだったのです。その真剣さを持って一日一日を生きることができてこそ、偉大な業績が遺し得るのです。
忙しさに追われる毎日ですが、本当に価値ある日々を送れているか、私も自分自身に問いかけてみようと思います。
貧しくとも満足するものは豊かである
先月訪れたニュージーランドで率直に感じたのがこの言葉の重みでした。ニュージーランドは人口400万人の小さな国です。特別に裕福なわけでもないこの国は、豊かな自然と四季を持っており、そこに暮らす人々はたいへん満たされている様子でした。
翻って日本はどうでしょうか? 世界第三位のGDPを持つ経済大国ではありますが、人々は豊かさを感じているでしょうか? 戦後の経済発展の中で物質的には豊かになったけれども、貪欲の果てに失ってきたものも多いのではないでしょうか? 漂流者が海水を飲むように、飲めば飲むほど喉が渇く…
私達の求めてきた「豊かさ」は、何か間違っていたのかもしれません。
日本もニュージーランドと同じ、豊かな自然を持つ小さな美しい島国です。かつての日本人がそうであったように、私達は簡素な生活と譲りあう心を取り戻すべきではないでしょうか。
ふりつもる み雪にたへて 色かへぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ
この歌は、敗戦後の昭和21年の歌会始にて昭和天皇がおよみになった御製です。国中が焦土と化した日本で、復興に向けて強く雄々しくあれと国民を励ましたメッセージともとれます。
国難とも言うべき惨状がありながら、雪に耐えて色を変えない松のように雄々しくあれと昭和天皇が国民を勇気づけたのが昭和21年のこと。あれから65年の月日が流れました。今年3月11日には東日本大震災で、日本は敗戦以来の大きな打撃を受けました。今上天皇は3月16日のビデオメッセージで被災者に向けて「これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」とおっしゃいました。
「雄々しさ」という言葉には、昭和天皇が込めた復興への思いが重ねられていることでしょう。全てが津波で流された町にただ一本残った陸前高田の一本松のように、私達も雄々しく生きていかなければなりません。雪に耐え、色を変えず、雄々しく生きていくのです。私達の国の復興を支えるものは、ほかならぬ私達自身の強さなのです! がんばろう! 日本!
一隅を照らす
「古人言く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照す、これ則ち国宝なり、と」伝教大師の『天台法華宗年分学生式』の冒頭に出てくるのがこの一文だそうです。
これは次の中国の故事に由来しています。
むかし、魏王が言った。
「私の国には直径一寸の玉が十枚あって、車の前後を照らす。これが国の宝だ」。
すると、斉王が答えた。
「私の国にはそんな玉はない。だが、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。
それぞれが自分の守る一隅を照らせば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国の宝だ」
と。
国にとっての宝は金銀財宝ではないのです。ひとつの持ち場をしっかり守る人、その一人一人こそが宝なのです。
米ドルもユーロも崩壊寸前で、円ばかりが高くなっています。マネーゲームの結末は、全てが紙切れになろうとしています。そんな中、日本は未曾有の大震災に見舞われました。
絶望的な状況から立ち上がろうとしている人達がいます。自分も何かしたいと思っている人達がいます。小さな子供達ですら、自分にも何かができるはず…と、拳を握り締めています。その姿を見た時、私は、たとえ小さくても一人一人の力を信じずにはいられないのです。それぞれが自分の守るべき一隅を照らす…それこそが最大の力になると私は信じます。
私は私の守るべき一隅を精一杯照らしたい。その力が集まって日本の千里を照らすことができる。日本の復興は私達ひとりひとりが背負っているのです。がんばろう! 日本!
本来無一物(ほんらいむいちもつ)
私は仏教の世界観が好きで、昔からいろいろな本を読み漁っていました。仏教の思想は論理的・合理的で、かつあらゆるものと持続・共存可能であることにしばしば驚かされます。そんな仏教の中でも思想の核となるシンプルなキーワードのひとつがこの言葉です。
人は皆、裸で生まれ、死ねば全てを失います。その道中はいろいろなものを手に入れたり失ったりして一喜一憂していますが、もともと人間は何も持っていないのです。
生きていくうちに、持てば持つほど失うことが怖くなるのが人間です。政治家も権力に近づくほど、手にしたものを失うことを避けるものです。しかし今、本当に必要な政治家とは、国家国民のために捨て身になれるリーダーではないでしょうか? 本来無一物。初心を忘れず捨て身で頑張ります。
貴方の中の 最良のものを 世に与え続けましょう
2009年7月23日の日記で紹介させていただいたマザー・テレサさんのことばです。
最近あらためてこの詩を声に出して読んだのですが、涙が溢れてきて最後まで音読することができませんでした。正直に誠実に頑張り続けることがほんとに報われない……という憤りや失望が私の中に日々強くあるもので、この言葉にはいつも泣かされます。
愛しましょう、やり遂げましょう、与え続けましょう……
一言一言が重たく、胸にズシリと迫ってきます。これぐらい腹が据わっていなければ、人のために生きることなどできないのだと思います。この言葉をしみじみ読んだ後には、強く頑張れるような気がしてきます。誰が何と言おうと、気にすることなく、信じた道をただひたむきに。以下、全文。
「愛」
マザー・テレサ
人は 不合理 非論理 利己的です。
気にすることなく 人を愛しましょう。
貴方が 良い事を行うと 利己的な目的で それをしたと言われるでしょう。
気にすることなく 良いことを行いましょう。
目的を達しようとする時 邪魔をする人に出会うでしょう。
気にすることなく やり遂げましょう。
良い事をしても おそらく 翌日には忘れられるでしょう。
気にすることなく し続けましょう。
貴方の正直さと誠実さが 時には貴方を傷つけるでしょう。
気にすることなく 正直で 誠実で有り続けましょう。
貴方の作り上げたものが 壊されるでしょう。
気にすることなく 作り続けましょう。
助けた相手から 恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく 助け続けましょう。
貴方の中の 最良のものを 世に与え続けましょう。
蹴り返されるかもしれません でも気にすることなく最良のものを 与え続けましょう。
最後に振り返ると 貴方にも わかるはず。
結局は 全て貴方と内なる神との間のことなのです。
貴方と 他の人の間であったことは 一度もなかったのです。
只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。
佐賀藩士・山本常朝の言葉の聞き書きである『葉隠』から、二度目の引用です。
「人生には結局、現在の一念(ひたすらな思い)よりほかに何も無い」ということです。「その思いをその時々において重ねていくことが一生である」と、続きます。自分がしたいと強く思うこと、自分が生涯を賭けようとしている仕事、その本分に全力を尽くすことが人生である、というふうに読み取ることができます。
東北大震災で傷ついた被災地を見て、自分も何かしたい! という衝動にかられる方も少なくないと思います。しかしこのゴールデンウィーク、被災地へ向かうボランティアの方々に対し、被災地からは早くも受け入れ困難との発表がなされています。現地の受け入れ態勢が整っていない今、自分の交通手段や食糧も確保できていない人がたくさん被災地に押し寄せることは、実は現地の重荷にさえなりかねないのです。
私達が今やるべきことは何か? それは自分の足下をしっかり踏み固めることなのです。建設業、観光業、飲食業、運送業、印刷業、漁業……福岡でも様々な業種が震災の影響で経済的な打撃を受けています。それぞれの人々がそれぞれの立場で自分の足下を踏みしめ、復興の足場を固めなければなりません。
どんな職業も、その仕事を通じて人は社会に貢献しています。どんな時も、自分の仕事に全力を注ぐことで社会に貢献できます。あなたの日々の営みが社会とつながり、被災地とつながっていることを信じましょう。あせらずひたむきに、今自分がなすべきことをやり遂げましょう。そうして足場を固めたうえで、被災地が求めるものをタイムリーに与えられるよう考え続けましょう。
今自分がなすべき目の前のことに全力を尽くす、そこに真髄があります。
人生って、成功することじゃないんだよ。努力することなんだよ。
長い冬が明け、希望の春がやってきました。しかし、嬉しい気持ちの人ばかりではないでしょう。受験や就職など、失敗や挫折を味わった方もおられるでしょう。政治の世界にも選挙という厳しい審判が下されます。必ずしも成功する人ばかりではないのが世の中であり、人生です。そしてまた、勝ち続ける人もいない、というのもまた人生です。
では私達は何に価値を求めて生きていくべきなのか? その答がこの言葉に凝縮されています。競争もある、勝敗もある、挫折もある、そんな人生において、目標に向ってひたむきに努力することが何より大切なのです。
短期的に見れば、目の前のチャレンジに成功できたほうがよかったでしょう。しかし、人生は長いのです。目先の勝敗は人生の一部なのです。腐らず焦らず、たゆまぬ歩みを続けていかなければならないのです。そこで努力を積み上げることができた人が、人生の勝利者たりうるのです。
目先の成功に心を奪われてはいけません。一度や二度の失敗に挫けてしまってはいけません。努力、そしてまた、努力。その足跡こそが人生そのものなのです。一歩、そしてまた、一歩。あなたの人生はこれからなのです。
負けて泣くなら 勝って泣け
今年1月に東京で開催された自民党年次大会にて、各県10秒間、統一地方選に向けたアピールタイムがありました。私は福岡県の代表として10秒間の発表をさせていただきました。北海道から始まり、福岡の出番は40番目くらい…。「10秒じゃ何もアピールなんかできん」と嘆く他県の代表を尻目に、私は一発盛り上げてやろうと目論んでいました。
赤坂プリンスホテルで千人の党員と数十台のテレビカメラを前に、壇上の私が歌ったのがこのフレーズです。「負〜けて泣くなら〜♪ 勝って〜泣け〜♪」
選挙には愚痴も言い訳も必要ありません。勝つか負けるか、厳然たる結果があるばかりです。グズグズ言っている暇があるのなら、今為すべきことに全力を尽くすべきです。
そして結果が出たその時に「よく頑張った」と涙が出るくらい、悔いなくやりきることが大切です。
この春、全国で、私のたくさんの仲間が選挙に挑みます。私を含め、勝つ人もいれば負ける人も出るでしょう。勝って泣くことができるよう、苦しい戦況でも歯を食いしばって今を頑張りましょう!
今食べてるのは7年前の仕事。今やってるのは10年先の仕事。
先月東京で開催された自民党党大会にゲストスピーカーで来られた岡野雅行さんの言葉です。昨年のゲストの野村克也さんも絶妙でしたが、今年の岡野社長の話も含蓄深く示唆に富んだものでした。
岡野さんの信条は「他人が作れるものは作らない」です。従業員5人の会社で億の利益を上げる、日本のものづくりのトップランナーです。
岡野さんが7年前世界に先駆けて作ったリチウム電池が、今花開いています。その収益が会社を支えるなか岡野工業はいま何をしているのかというと、10年先に花開く技術を開発しているのです。
努力が報われるにはときとして長い時間が必要ですし、成功してもなお先を見つめて努力を続けなければなりません。日々のたゆまぬ努力が現在を作り未来を作るのです。
私も目先のことであくせくせず、10年単位のスケールで結果が出せるよう日々努力していこうと思います。
登りたい山を決める。これで人生の半分が決まる。
現代の立志伝中の人物である孫社長は、福岡の出身。私が通った塾、森田修学館の先輩にあたります。その孫社長が語った成功への第一歩は、「志の大きさ」にあります。心に誓った夢の大きさが、その人の人生のスケールを決めるのです。
私が政治を志したのは、生活のためでもなければ地位や権力を手に入れるためでもありません。3期目の選挙もその当選は目的ではありません。あくまで通過点です。
少年時代に「世界を平和にしたい」と誓って志した政治の道。生き馬の目を抜く国際社会を目の当たりにして、まずは日本の独立と安全を確保することが先決だと痛感しています。
社会保障制度や財政の再建、豊かで公正な社会の実現など内政問題も山積ですが、それらは私が登ると覚悟を決めた山にほかなりません。
一生かけて登る山もあれば、一年かけて登る山もあるでしょう。年頭にあたり、みなさんも今年登る山を決めてみてはいかがでしょうか。
死ぬ気でやってみろ 意外と死なないから
ご存知、維新の立役者のひとり、勝海舟の言葉です。
自分を斬りに来た坂本龍馬を受け入れ育てた度量の大きさや、江戸を戦火から救った西郷隆盛との歴史的会談、新政府に対し歯に衣着せぬ批評をした度胸と見識、幕臣でありながら体裁にとらわれない人間の大きさに魅力を感じます。
べらんめぇ口調の海舟には、やけっぱちとも思えるほどの思い切りの良さがあります。捨て身というか開き直りというか、一度きりの人生、自分に嘘をつかない潔さがあるように感じます。そういう彼の言う「死ぬ気でやってみろ」は説得力があります。どんな世の中にも、本当に死ぬ気でやっている人はそういないのではないでしょうか? 海舟は、自分に降りかかる全ての運命に対して、死ぬ気で事にあたったのではないでしょうか。その結果、何の保身もしなくとも意外と生かされている自分に気づいたのかもしれません。
小さなことで思い悩むよりも、大きく構えて思い切りやってみよう! 死ぬ気でやればなんとかなる! その気魄が運命を変えるのです。
成敗(せいばい)は天にまかせてことにあたるのが武士の勇気
先日紹介した桜井よしこさんの著書、「明治人の姿」の主人公が杉本鉞子さんです。杉本さんは長岡藩の筆頭家老の娘に生まれ、戊辰戦争では賊軍としての厳しい運命に翻弄されます。杉本さんの祖父も父も、佐幕派として非業の死を遂げました。しかし、あらがい難い運命を前にしても、彼らは一切ジタバタしませんでした。自分の信じる大義を貫いた後は、責任を逃れることも人を責めることもせず、静かに天命を受け入れました。その潔さに感銘を受け、現代に生きる私もそこに学ばなければと思うのです。
大義を貫くにあたっては、全ての私情を捨て一心不乱にことにあたるべきです。その結果どういう運命が自分を待っているかは誰にもわかりません。現代日本においては、先のことまで考えて打算で動くというのがむしろ常識的な行動かもしれません。しかし昔の日本人はそうではありませんでした。目の前の現実に対して、「大義」を最大の価値としてことにあたりました。そしてその結果おこった全ての出来事(成敗)については、潔くみずから引き受けたのです。当時の日本人の価値観が「自分にとって損か得か」ではなかったのはあきらかです。「自分の行動は大義に則っているか」ということが価値であり、結果は天に任せ全てを受け入れるのです。「損か得か」で言えば損することが多い選択でしょうが、私はかつての武士のごとく生きたいのです。
政治の世界も世の御多分にもれず、大義よりも損得で動いた人のほうが成功しがちな世界です。正直や誠実、謙虚、節操と言った美徳は軽んじられ、真面目一本槍の人は利用されるばかりで損をしがちです。しかしそれでも、私は私の信じる美徳を追求していきたい! 政治家に信念と節操が無くてどうしますか!? 日々、成敗は天にまかせてことにあたるのみです。
小さなことを積み重ねるのが とんでもないところへ行くただ一つの道だ
先月、大リーグ10年連続200本安打を成し遂げた、イチローこと鈴木一朗選手の言葉です。「千里の道も一歩から」と言いますが、偉大な記録も小さなことの積み重ねにほかならないのです。
また、時を同じくして大相撲では横綱白鵬が62連勝を成し遂げました。前人未到の境地でありながら、当然のように積み上げられていく安打、そして勝利。日々の節制やトレーニング、記録更新のプレッシャーは、我々の想像を絶するものがあるはずです。彼らが積み上げた「小さなこと」とは、安打や勝利そのものではないのでしょう。安打を打つために備える日々の行為ひとつひとつが、偉大な記録への轍となったのです。
同時代を生きる二人の求道者の姿は、私にとっても大きな刺激です。「とんでもないところ」を目指すのであれば、小さなことを軽んじてはいけない!さらなる高みを目指して踏み出す一歩一歩が、それ自体価値あるものなのです。成功とはきっと、「小さなこと」を大事にできるかどうかにかかっているのでしょう。行く道は違えども、イチローにも白鵬にも負けない意気で、私は政治の道を究めたいと思います。
笑わせる 腕になるまで 泣く修業
“昭和の爆笑王”と言われた落語家・林家三平さんがのこした言葉です。テレビ時代の寵児として多くの国民を笑わせてきた林家三平さんですが、陸軍徴兵から復員した後、売れるまでの間には苦労の生活があったようです。
芸人の世界では苦労や遊びも「芸の肥やし」とされますが、三平さんは売れるまでの修業では泣く思いを重ねてきたのだろうと思われます。泣いて泣いて、苦労を重ねて腕を磨き続ける……いつの日か、晴れの舞台に立ちお客を笑わせる日を信じて。
苦労というのは人が磨かれるいちばんの肥やしだと、私は最近つくづく思っています。苦労を知らなければ、人の痛みがわからない。謙虚な気持ちを持つことができない。自分より弱い立場の人を心底思いやることができない。自分を支えてくれる多くの人の存在に思いを馳せることができない。そう思うのです。
最近は、テレビにちょこっと出演すれば全国的な有名人になり一躍人気者です。安易な気持ちで「芸人になって金持ちになってモテたい」という若者も多くいます。しかしどんな業界でも、簡単に手に入るものに大きな価値はありません。安易な成功を望むより、苦労しても自分の信念を求める道を行くべきです。
自分が信じた道を、ただひたむきに真っ直ぐ歩いていきたいものです。その道のりは涙でいっぱいでしょう。しかし苦労を乗り越えた人だからこそ、優しく人を笑わせることができるのです。
先憂後楽〜天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ
笵仲淹は北宋の政治家。福岡県が友好提携を結んでいる江蘇省・蘇州の出身。優れた見識を持ち、己の身を顧みず天下を論じたという笵仲淹が残したのが「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」という言葉です。為政者たるもの天下の安危について人より先に憂え、人より後に楽しむべきであるという意味です。
政治家は、国民が不安を感じるより先に、将来起こるであろう問題点に気づくことが必要です。
そしてまたその問題について、事が大きくなる前に先んじて手を打つことが必要になります。
問題が起こる前に手を打ち国民生活を守る、自分の楽しみはその後である、という心構えです。
翻って、今の日本の政治はどうでしょうか?
少子高齢化や財政の悪化など、今のような厳しい状況になるのは昔からわかっていたことではないでしょうか? 将来必ず起こる問題を放置し、場当たり的な対処をツギハギで繰り返してきたツケが、今押し寄せてきています。今政治がなすべきは国民への迎合ではなく、「今これをこう解決しなければ将来こんなに大変なことになりますよ」と、国民を説得することです。耳に痛い厳しいことも、率直に国民に訴えなければなりません。
今の日本は生活習慣病のようなものです。飴をもらって喜んでいる場合ではありません。根本治療の苦い薬を処方できる厳しくも優しい医者こそが必要です。
政治家だけではありません。国民もまた、将来のことを心配し、現在の厳しさに耐えなければなりません。そうして私達の次の世代に、暮らしやすい良い国を残さなければなりません。民主主義の主権者である国民こそが「先憂後楽」の気構えが必要な時代なのです。
もっとも不幸なことは全てが思い通りに回ることだ。
大リーグでも大活躍を続けているプロ野球選手・イチローこと鈴木一朗さんの言葉です。この言葉はその後さらにこう続きます。
「思うようにいかなくなってその困難を乗り越えようとする。そして少し成長した自分がいる。これが最高の瞬間なんだ!」
なんとも爽やかで前向きな言葉じゃありませんか?! 全てが思い通りになる人生を人は望みがちですが、それは幸せなことなのでしょうか? あらゆる困難は自分を成長させるための試練なのです。いかにも求道者(球道者?)イチローさんらしい言葉です。
小学生の頃からの夢がかなって政治家として歩みだした私ですが、順調そうな傍目の華やかさ以上に苦しみの多い道のりでもありました。身を粉にして働いても政治家に対する世間の風当たりは強く、信念を貫いて行動しても理解されないことに心を痛める日々でした。そんな時に友人が送ってくれたのがこの言葉でした。
何事も、思い通りにいかないのが当たり前です。それを乗り越えるところに成長があるんです。挑戦と成長に喜びを見出し、前向きに進んでいきたいと思います。
稚心を去れ 気を振るえ 志を立てよ 学に勉めよ 交友を択べ
安政の大獄で26歳の生涯を閉じた幕末の志士・橋本左内が、15歳で著したのが「啓発録」です。彼がその書の中にしたためたものが、自分を律するこの五つの規範です。世の中で役立つひとかどの人物(=左内は「天下の大豪傑」と記している)になるためには、「幼い気持ちを捨て、負けじ魂を奮い起こし、人生の目標を定め、優れた人物に学び、交際する友を選りすぐる」ことが大切であるとしています。
こうした人生の指針を、左内は15歳のときに自ら打ち立てたのです。最近は大河ドラマ「龍馬伝」で幕末に注目が集まっていますが、近代日本の黎明期に活躍した彼らはみな十代二十代の若さでした。当時の志士と比べると、今の日本人は幼稚で無気力なのではないでしょうか。橋本左内のこの言葉からも、「生きる心構え」が違うのだなぁと考えさせられます。閉塞したこんな時代だからこそ、志ある生き方が輝きを増します。時代が良くなれば個人の志が高くなるわけではありません。志ある高潔な個人が増えることこそ、時代の閉塞感を打ち破ると私は思います。
報われるためにやっているのではない。報いるためにやっているのだ。
私が議員となって7年の月日が経ちました。365日、スーツを着て仕事をしない日はなく、休みもプライバシーもなく身を粉にして働く日々でした。
しかし、政治家に対する世の中の評価は手厳しいものがあります。「何をしているかわからない」「自分ばかり高給をもらって」「誰がやっても同じ」「全て政治が悪い」…。
いつ倒れてもおかしくないくらいのオーバーワークの中、これほどまで頑張っても少しも評価されないことに「政治家なんて、本当に報われないね。」と夫婦で嘆くこともたびたびでした。
しかしある日、私ははたと気づきました。「報われない? 俺は誰かに報われるためにこの仕事を選んだのだろうか?」
誰かに評価されるために政治家になったのではないのです。先祖や先人、全ての人々のおかげで社会の中で生かされていることに感謝し、その恩に報いるため、次の世代に良い国を残すために頑張っているはずなのです。
心ない人は、汚い言葉の限りを尽くして政治家をののしります。その言葉にいちいち傷ついていては、身が持ちません。誰に何と言われようと揺るがない、強い誇りと信念を持ち続けたいと思います。自分が正しいと信じることを、ただひたむきに貫くだけです。
大切なものなら大事にしなさい
それは、私が子供の頃の小さな出来事でした。私が手作りしたお気に入りのおもちゃが、ある日なくなってしまいました。「昨日までこのあたりにあったのに、おかしいな?」不審に思い、母にそのおもちゃがどこにあるか知らないか尋ねてみました。すると、「ああ! それならもう捨ててしまったよ! あなたが部屋中散らかしとうけん、片付けの時にゴミと思って捨てたよ。大切なものなら、ちゃんと大事に片付けときなさい。」との返答。
人は、大切なものは、失くしてしまって初めて大切だったと気づくのです。大切なものならば、失くしてしまわないように常日頃から大事にしていなければならないのです。だけど人は、大切なものに限って、そこにあって当たり前のように暮らしているんです。そこにあって当たり前のものがなくなって初めて、人はそれが「有り難い」ものだったと気づくのです。「ありがたい」っていうのはそういう意味なんだなと思います。
あなたにとって大切なものは何ですか? 十分大事にできていますか? それは有り難いものなんですよ。日々、感謝しましょうね。
政権は野党のときに作られる
「鉄の女」と呼ばれたイギリスの保守政治家、マーガレット=サッチャーの言葉です。チャーチルやサッチャーといったイギリスの保守政治家は、さまざまな名言を残しています。
今回のことばは政治の世界の話で、一般社会に生活するみなさんの心を打つものではないかもしれません。しかしながら、「政権」と「野党」という単語を他の単語に置き換えてみると、この言葉の持つ普遍性に気付かされます。野球選手の実力は、二軍でフォームを固める時期に作られます。芸人の実力は、売れない時代のすごし方で決まります。独立して商売をはじめる時にも、サラリーマン時代に築いた人脈と経験がものをいいます。春に咲く花も、冬の風雪の中で蕾をつけるのです。
野党となった自民党は今こそ自らの原点に立ち返り、国家国民のための政策作りをしなければなりません。昨夏に国民が望んだものは「政権交代可能な二大政党制」であったと思います。民主党の政策の是非を問い、日本再建への明確な構想・政策を示すことが、今、自民党がやるべき仕事です。
人は苦難の時代にこそ次の飛躍への準備をしていなければなりません。くじけている暇などないのです! どんなときにも日々の努力があってこそ未来が開けるのです。
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
先月24日に行われた第77回自民党大会にゲストスピーカーとして招かれた野村監督の言葉です。「野村再生工場」「優勝請負人」と言われた名将らしく、下野した自民党の再生に向けて示唆に富んだスピーチでした。
監督は「最下位になったチームからばかり声がかかる」とボヤいていましたが、一敗地にまみれた自民党はまさに敗者の悲哀を味わっています。「さまざまな幸運が重なり偶然に勝つことはあっても、負ける時には必ず負ける原因がある。敗北は偶然ではなく必然なのだ。」という野村監督の哲学が表れています。これを自民党に置き換えるなら、昨年の自民党の敗北は負けるべくして負けたのだということです。
野村監督はこうも言いました。「負けた時は誰だって反省するが、勝った時にはなかなか反省しない。そこに落とし穴がある。」長く権力の座にあり驕ってきた自民党は、未だかつて反省する場面がなかったのではないでしょうか? 野村監督はユーモアあふれる語り口の中で「自民党よ、いまこそ反省せよ!」と語りかけてくれたのではないでしょうか。「勝って驕らず、負けて腐らず」、得意の時にも失意の時にも、常に謙虚に足下を見つめて自らを省みることが必要です。「負けるのには必ず理由がある」のであるならば、次勝つためには負ける原因をなくす努力が必要です。その努力こそが「不思議の勝ち」を引き寄せる幸運を呼ぶのでしょう。真剣勝負の世界で54年間食ってきた超一流の野球人ならではの、なんとも含蓄深い言葉です。
雲外(うんがい)に蒼天(そうてん)あり
私の恩師である森田修学館館長・森田譲康先生が、今年の年賀状に書いていた言葉です。
暗く厚く垂れ込める雲の下で、「この不幸な状況はいつまで続くのだろう」と、時に人は希望を失ってしまいます。しかしそんな苦しい時こそ、明るい気持ちで前向きに行動しなければなりません。その雲の上にはいつだって輝く太陽と蒼い空が広がっているのです。
新政権下で外交・防衛などの国益が次々に損なわれている現状、危険で日本の将来に多大な悪影響を与える法案がまさに提出されようとしている状況、下野した自民党にはいかんともし難く、国の未来を思うとき、暗澹たる思いに絶望してしまいます。
しかし! どんなときにも、決して絶望してはいけないのです! 苦しい今を突き抜けたその先に、爽やかな空が見えることを信じて。
底の見えない不況に、日本中あらゆる業種の方々がもがいています。「いつまで、どれだけ頑張れば報われる日が来るのだろう…」絶望感に襲われることもあるでしょう。そんな時につぶやいてみてください。「雲外に蒼天あり」と。
希望を持って奮い立つ、新春にふさわしい激励の言葉です。
できるかできないかではない。やるかやらないかだ!
何かを成し遂げようと思うとき、人はまず「できるかできないか」を考えます。そうやって挑戦する前に、自分にできるかできないか答えを出してしまいがちです。
しかし本当にやろうと思うことなら、できるかできないかは問題にするべきではありません。今の自分にできるかできないかなんて、頭で考えてもしょうがないのです。できることしかしないのなら、そこに成長はありません。やると決めたらやるんです! できないようなことでも、なんとかしてやってみせるのです! 全身全霊すべての力を傾けて、なにがなんでもやり抜く気持ちを持たなければ何事も成就しません。
成功の第一歩は、なんとしてもやり遂げようという気魄に尽きます。できないと思う前に、まずは自分の心に「必ずやるんだ」と誓ってやろうじゃありませんか!
空気を読むな!
みなさんご存知かと思いますが、近年の造語にKYというものがあります。場の空気を読めない人のことを「KY(空気・読めない の略)」と呼んで蔑む言葉です。
毎年2月に開催される五十川ゼミの総会で、参加したOBから現役学生達へメッセージが送られます。そこでT先輩が後輩達に贈ったのがこの言葉です。
「最近世間ではKYという言葉がはやっていて、場の空気が読めない人を馬鹿にする。その風潮のせいで、集団の中で物を言うことがだんだん難しくなってきている。『こんなことを言ったら場の雰囲気を壊すんじゃないか?』と萎縮し、自分の考えを言わない人が増えてきている。私はむしろ君達に、『空気を読むな!』と言いたい。人と違う意見を言うことを恐れるな! 人と違うからこそ発言に価値があるのだ。そして、人もまた自分と違う意見を持っていることを尊重するのだ。」
さすが社会人の先輩、若き後輩達に素晴らしいメッセージをくださる! と感心しました。昨今の、空気を読んで物が言えなくなる風潮には、憂慮すべきものがあります。マスコミが人為的に誘導する世論というものに雪崩を打って国民がついていく姿、その雰囲気に対して物が言えなくなっていく様子は、戦前のようだと言う方もおられます。
そんな状況で物を言うのは本当に損なことです。理解されないどころか、石つぶてが飛んできます。しかし私は気力を振り絞って物を言いたい! 正義は、真実は、その場の雰囲気などで変わり行くものではありません。正しいことはきっといつか歴史が証明するはずです。議会人として、迎合よりむしろ反骨でいきたいと思います。
得意端然 失意泰然
得意の絶頂にあるときはむしろひかえめにし、失意のときも平然としているということ。「端然」を「淡然」と表記することもありますが、私としては「端然=正しくととのったさま」のほうがしっくりきます。
長い人生には、山もあれば谷もあります。誰にも浮き沈みがありますし、大きな勝負をする人ほどその落差は大きいでしょう。政治家などは「大きな勝負をする人」の最たるものです。どれだけ世の中のためと思って頑張ってきても、選挙という一発勝負に敗れれば借金を背負って無職になって放り出されます。
いや、これは政治家だけではないかもしれません。夢を抱いて独立した起業家も、プロスポーツの世界で頂点を目指すアスリートも、全ての責任を自ら背負って人生の山谷を歩いていきます。
いいときもあれば悪いときもある。だからこそ、環境の変化に一喜一憂しない強さが必要です。順風満帆の日にも調子に乗らない謙虚さと、どん底のときにも腐らずに努力を続ける姿勢が必要です。けれんみなくひたむきに歩み続ける一歩一歩が人生を作るのです。
幾たびか辛酸を嘗めて、志初めて堅し
第45回衆議院選挙は、自民党の大敗に終わりました。終始凄まじい逆風を肌身に感じていた私ですが、今回の選挙には信念を持って捨て身で挑みました。「艱難、汝を玉にす」の言葉どおり、逆境での奮闘は私自身をひとまわり大きくしたのではないかと思っています。
このたびの結果は、有権者が自民党に下した審判だと思っています。これも自民党の体質や驕りへのご批判と謙虚に受け止めて、保守政党としての再建をしっかり果たしていきたいと思います。
私が応援してきた山崎拓前衆議院議員は、くしくも選挙後のメールマガジンでこう語っています。『自民党は、私も長く籍をおいて参りましたが、立党時の、国を再建する燃ゆるがごとき情熱と理想が徐々に失われてきたと言わざるを得ません。』
戦後の復興を果たしてきた自民党が今こそ立党の精神に立ち返って、国家の独立と経済の復興、国民生活の安定に向けた建て直しを図っていきたいと思います。
艱難、汝を玉にす(かんなん、なんじをたまにす)
2003年から政治の世界に身を置き4年間、「自民党とはどんな党か?」「民主党とはどんな党か?」本質を見極めた上で2007年に私は自民党に入りました。それから2年半、自民党は結党以来の危機的状況を迎え、逆風は収まるどころかとめどなく吹き荒れています。多年にわたるマスコミのネガティブキャンペーンにより、自民党は圧倒的不利な形勢にあると日々感じています。
しかし、信念を持って選んだ道である以上、ここで逃げ出すわけにはいきません。敗色濃厚かもしれない、下野するかもしれない…そんな苦しい時こそ、地に足をつけて正面から逆風に立ち向かっていきたいと思っています。
政治家にとって大事にしなければならないものは、目先の損得ではありません。世に問うべき己の信念です。苦しい時に歯を食いしばって踏ん張ることこそが、骨太な政治家として自らを成長させるでしょう。揺れ動く世論や無責任なメディアの煽りに右往左往することなく、この国のあるべき姿を求めてまっすぐに歩み続けようと思います。
捨てる神あれば 拾う神あり
自民党の混乱や支持率低下にともなって、私への風当たりも強くなってきました。悪魔に魂を売ったかのように言われ、もう応援しないという声も聞こえてきます。私が日々どう考えどう活動し、それがどう社会につながっているのか、伝えることも理解を得ることもできていないのは私の不徳の致すところでしょう。
しかしそうした中にも、私の活動に理解を示し激励の言葉をかけてくれる人がいます。離れていく人もいれば、信じてついてきてくれる人もいるわけです。そんなときに、有り難さや心強さとともに沸き起こってくるのがこの言葉です。「拾う神もあるのだなあ」と、地獄に仏を見る心地です。
日本には古来より、八百万(やおよろず)の神がいると言われてきました。それは無限に異なる価値観の象徴です。人の数だけ多様性があり、それぞれの違いを認める国が日本であり、一神教の国々と違うところです。
有権者という八百万の神々は、二年後私をどう裁くでしょう。それは神のみぞ知るといったところでしょうか。どう裁かれようと、私はそれを恐れるものではありません。私が信念を貫く限り、拾う神もあると信じています。泰然として怯まず前に進むのみです。
爾今生涯(じこんしょうがい)
中学校の同級生が教えてくれた言葉です。爾今とは、今より後ということ。ここから先が生涯である、つまり、人生どこで区切ってもそこからが出発であるという意味になります。
私はラグビーが大好きで今でもプレーをしていますが、このスポーツに一番必要なのが闘争心であり、敢闘精神です。ときには自分達よりはるかに強いチームとぶつかることもあります。立て続けにトライを奪われ、戦意を喪失するような場面もあります。そんな時いつも私が思うのが「ここから1本のトライを奪い返すのだ!」ということです。やられっ放しでは終われない。一矢報いるのだ! トライを奪われた後、次のキックオフの笛が鳴ればまた新たな勝負なのです。
人生もこれによく似ています。どんなに痛い思いをしても、どんなに苦しい場面でも、どんなに不運が続いても、シュンとしない、うつむかない、決してゲームを捨てない。人生というゲームはまだまだ長いのです。過去を悔やまず、「負けるものか! ここからが勝負だ!」という意気で闘う矜持を持ち続けたいものです。
「トヤモ、ゲンキ。 ユワヲノセイコウ、マツバカレ」(トヤも、元気。巌の成功、待つばかり)
私の母方の家(大浦家)は、対馬の出身です。宗氏が国境の島・対馬を任されて移り住んだときに、ついて来た家臣であるとされています。
私の祖父・巌は、対馬で生まれ育ちました。どうにも手のつけられない悪ガキだったという逸話が残っています。
そんな祖父がどういう経緯でか、医者になることを志して、久留米医師専門学校(現在の久留米大学医学部)に行くことになりました。島を離れ、ひとり福岡で苦学している際に親から送られてきた手紙に書いてあったのが、この一言です。
祖父はこの手紙を額に入れ、終生大事に携えて努力を続けてきました。字も知らない母が、わが子を思い、したためた手紙。それを胸に、身寄りもない地で刻苦勉励した祖父。どんな母もわが子の成功がなによりの望みなのだということを思うと、涙が溢れそうです。
今月私は生まれて初めて対馬に行ってきます。祖父の育った場所(今の対馬市上対馬町河内)まで行く余裕がなさそうなのは残念ですが、大陸に最も近い島の空気を吸ってきたいと思います。
綸言汗の如し(りんげんあせのごとし)
綸とは太い糸のことです。君主の言葉は糸のように細いとしても、それが国のすみずみまで達する時には綸のように太くなっています。その様子を例えて、君主が臣下に対して発する言葉を綸言と言います。「綸言汗の如し」とは、「一度口に出した君主の言は、汗が再び体内に戻らないように、取り消すことができない」という意味です。
議会における、議員や知事の発言に関しても同様のことが言えます。議会という公の場で発した言葉は、そのまま県の方針として議事録に残されます。いいかげんな質問や、思いつきの提案、軽はずみな答弁は決して許されません。議会も県執行部も、入念に言葉を選んで質問と答弁を作り上げるのです。
「本会議場での質問はセレモニー化されており面白くない」という批判もありますが、そもそも議会は観客を面白がらせるためのものではないのです(最近の国会は劇場化・パフォーマンス化していますが)。「本会議場での質疑応答は出来レースだ」と言う人もいますが、議会は本会議場で行き当りばったりの勝負をしているのではなく、本会議場に入る前に、それはそれは激しいせめぎあいが行われているのです。
この2年間、私は自民党県議団の政策審議会・事務局長として、党の代表質問作りをやってきました。それは、会派の主張を取りまとめ、執行部に質問を投げかけ、より良い答弁を求めるという、大変な作業でした。県政第一党であるからこそ、そこでの質問の質の高さと答弁の内容にはこだわりました。まさに議員としての責任の重さと、県政の場における言葉の重さを噛み締める日々でした。
議会人とは、言論を武器に戦う侍です。「武士に二言は無い」を地でいく世界です。そうした気概で頑張っている議会人もいるということを世に知ってもらいたいものです。
鳴かぬなら ほっとけ ホトトギス(字足らず)
この2年間、私と警察委員会で議会活動をともにした井上貴博さんの言葉です(井上県議が警察委員長、私が副委員長でした)。
どうにもならない事態に直面したときに、歴史上の人物がどういう行動をとるのかを表した句があります。
麻生太郎現首相が3度目の自民党総裁選で悲願の勝利をあげたとき、総裁選を精一杯応援した井上県議と麻生代議士は祝杯をあげました。ある時は怒り、ある時は仕掛け、ある時は耐えた麻生代議士、天下人の句に自分の道程をなぞらえて振り返りました。そこで、「君ならホトトギスをどうするか?」という問いに、井上県議が答えたのがこの言葉です。
政治家の仕事は、身近な小さな頼まれごとから国の大きな展望まで多種多様です。重要だとされる事柄も、人それぞれに異なります。景気も大事、医療も大事、教育も大事、治安も大事……どれもそれぞれに大事です。限られた経営資源(時間・労力・お金)で、それぞれの解決を図らなければなりません。一つの問題だけに全力を注入することはできないのです。
経済成長時代には、国民の希望をすべてかなえてくれる政治家が力のある政治家であり良い政治家でした。そこには政策の優先順位や、「できません」と断る勇気が欠けていました。しかしその構図は国の借金を無制限に増大させ、問題を次世代に先送りしてきました。これからの政治には、政策の選別や濃淡のメリハリが必然となっています。
たくさんある問題の中で、優先順位によっては、なかなか解決しない問題もあるでしょう。どんなに社会のために力を尽くしても、良かれと思って行動しても、理解されないこともあります。そんな時に責め立てられても逆恨みを買っても、泰然として「ほっとく」勇気も必要です。黙って耐え忍び、自分の今なすべきことをやり続けるのです。
「ほっとけ」という言葉に対する誤解を恐れず、あえて今月の言葉とさせていただきました。
Do the harder right thing!(たとえそれがより困難であったとしても、正しいことを行う)
私の高校ラグビー部の先輩・佐久間敏雅さんが代表を務める会社の社是です。日本語で聞くとインパクトが薄いのですが、英語で書いたほうが迫力が出ます。Do the right thing!(正しいことをしなさい)であり、Do the harder!(より困難なほうをとりなさい)なのです。「どんな困難があろうと自分が正しいと信じた道を行きなさい」という信念の言葉です。
二期目の選挙が終わり、私が自民党に入ってから約2年が経ちました。無所属で頑張る私に期待した方々からはいまだに多くの失望の声が聞かれます。「自民党はどうにもならない悪い政党だ」と認識されている方々からすれば当然のことでしょう。客観的に見て「鬼木は二期目の選挙に当選するやいなや権力に擦り寄った」と映ってしまうのもいたしかたありません。
しかし私も四年間政治の生の現場を見たうえで、信念を持って自民党に行きました。(私の説明が十分でなく申し訳ありません。どうしても他党を悪く言うことになってしまうので未だに十分に表現できておりません)どんなに逆風であっても支持率が下がっても、自民党に入ったことは私にとってのharder right thingです。
テレビと新聞が世論を作ってしまうという抗し難い時代の波が押し寄せていますが、時がたてば必ず結果が出ます。人が何と言うかではなく、人からどう見られるかではなく、自分が信じた道をただひたむきに行きたいと思います。
Do the harder right thing!
志を立てて以て万事の源と為す
幕末に松下村塾を開き多くの志士を育てた吉田松陰は、三十歳という若さで斬刑され亡くなりました。彼が後の日本に与えた影響の大きさを考えたとき、人生とは長さではなく、何を為すかということに尽きると考えさせられます。
三十年を熱く激しく駆け抜けた彼の力の源は何だったのか? その答がこの一文にあります。人間の行動全て、力の源は志にあるのです。行動するもしないも本人の意志次第、その強い意志を支える根幹となる志を持つことが全ての始まりなのです。
ぼんやり生きても一生。懸命に生きても一生。「あなたは何をしたいのですか? あなたは何のために生きているのですか?」単純な問いですが、何より大切で何より厳しい問いです。
厳しい経済情勢の昨今、政治のあるべき姿が問われています。私自身、政治を志した原点に立ち返り、世のため人のためになる行動をしたいと思います。
われいまだ木鶏たりえず
不世出の大横綱・双葉山の言葉です。木鶏とは中国の古典『荘子』に出てくる故事で、木でできた鶏のようにどんな挑発にも超然と構える最強の闘鶏を言います。
少年時代の負傷がもとで右目が失明状態だった双葉山ですが、そのことを誰にも告げずひたすら精進を続けました。横綱となった双葉山は69連勝という大記録を打ちたてます。連勝が途切れたその日、彼が友人宛に送った電報がこの言葉でした。
「イマダモッケイタリエズ」
木で作った鶏のように無心の境地に至れなかった自分を戒め、さらなる精進を誓った言葉です。孤高なまでに相撲道と向き合い、己の限界に挑み続けたその生き様は今も多くの力士の模範となっているということです。
双葉山ほどの大横綱でも木鶏となることはできなかったと言います。振り返って私自身を省みる時、いかに自分が小さいかということに気がつきます。日々の小さなことひとつひとつに悩み、傷つき、怒り、心を乱しています。相撲道にひたむきに打ち込み木鶏たろうとした双葉山の志の高さを見習いたいものです。政治家の一挙一動は世の中の厳しい目と批判にさらされますが、一喜一憂せず信じた道をひた進む木鶏となりたいと思います。
Easy come, Easy go.
簡単に手に入れたものは簡単に失われるという意味の英語のことわざです。逆から言えば、苦労して手に入れたものだけが自分の身につくということです。
戦後の日本は急速な経済発展を遂げ、今では世界中のあらゆるものが手に入る豊かな国となりました。しかし繁栄の一方で、物は溢れ、現在ではもはや飽食の時代となっています。人々は、ハングリー精神とでも言うのでしょうか、生きる力そのものをなくし、国家は目標を見失っています。
日本は「欲しい物全てが簡単に手に入る便利な社会」を求めて突っ走ってきたものの、それは労せずして果実を手にした世代をダメにしてきたと言えるかもしれません。
学生に将来の夢を尋ねると、ある学生は「楽して儲かる仕事がいい」と答えます。またある学生は「何をしていいかわからない」と言い、「どうしたらいいでしょうか?」と安易に答えを求めてきます。
自分の人生は自分の意志で切り開いていくしかないのです。「意志あるところ道あり」とするならば、意志なきところに道はないのです。
真に求めるものならば、楽して手に入れようなどと思わないことです。真に求めるものならば、簡単に諦めないことです。苦労して手に入れたものこそ価値があり、生涯にわたって自分の血肉となるのです。
若者には大志を持ってほしい! そしてその夢を叶えるためにはどんな苦労もいとわない覚悟と情熱で挑んでほしいと思います。
自分の頭で考え 自分の足で立つ
私が九大時代に所属したラグビーのクラブチーム・KRBのT先輩が新年会の挨拶の中でおっしゃった言葉です。
最近の世論はあまりに偏った方向に流れがちです。それはマスメディアによって一方的に流される情報を私達がそのままうのみにしていることに一因があります。ニュース番組のアナウンサー、ワイドショーのコメンテーターが、あらゆる事象を人のせいにして責め立てます。それらの情報は本当に正しいのでしょうか?
ここに一本のドラム缶が立っているとします。真横から見れば、確かに360度どこから見てもドラム缶の形は四角です。それをとらえて「四角だ! どう見ても四角だ!」と決めつけているのが今の報道の姿です。それは偏った一面的なものの見方です。ドラム缶を上から見ればその形は丸であり、ドラム缶の真実の姿は円柱形なのです。与えられた情報はそもそも偏っていることを知り、自分の目と耳で確かめ自分の言葉で語り、自分の価値観に照らして考える習慣が必要です。
また自分の足で立つという言葉には「人のせいにしない・人に依存しない」という意味があると思います。自分で考え、自分で行動した結果には自分が責任を持つという生き方、今の日本人に欠けていることだなぁと思わされる昨今です。
ならぬことはならぬものです
先月、全国県議会の野球大会があり、会津若松市に行って来ました。市内で見かけた垂れ幕にこの言葉を見かけました。「ならぬことはならぬものです」! このフレーズのインパクトにあらためて心を奪われました。先日「おにきどん文庫」にて紹介した「国家の品格」でも取り上げられた言葉でしたが、白虎隊を育んだその土地で目にしたことで私の感慨もひとしおでした。
戦後教育を受け、私達は自由・平等・人権と言った価値観を学びました。それらが大事なものであることは確かなのですが、しかしこれらの価値観を盾に取った理屈に負けて大人が子どもに(また親に)言い負かされる場面を、これまでいくつも見てきました。「ならぬことはならぬものです!」そうした自信と迫力を持って、私達大人は(わが子に限らず)子どもの教育に関わっていくべきだと思います。
福島県ではこのフレーズを略して「NN運動」と名づけ展開しているそうです。「什の掟」の詳細は以下の通りです。
男子三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ
呉の武将・呂蒙(りょもう)は勇猛さでライバル国の魏や蜀にもその名が響いていた。その一方呂蒙は無学だったので、君主の孫権が少しは学問を学び人間の幅を広げるよう呂蒙に諭した。それから時が流れて、呉が蜀の名将・関羽と対峙した際、呂蒙は関羽の性格を分析し適切な献策をした。呂蒙は学問に励み、いつしか勇に智が伴う武将になっていたのだ。これに驚いた周囲の人達に呂蒙が言った言葉が「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」。『志ある人物は(今は未熟なところがあっても)、別れて三日もすれば目をこすってよく見なければならない(くらいにしっかり修練を積んで立派になるものだ)』ということ。日本では「男子三日会わざれば刮目して見よ」という意訳が有名な故事成語となっている。
毎年9月になると福岡青年会議所では理事を選ぶ選挙が行われます(無投票のこともありますが)。選挙で人から投票してもらうというのは大変なことで、自分の思いを言葉で伝える能力やリーダーシップが厳しい目で問われます。しかし選挙で衆目にさらされるその数日間で、立候補者の中には飛躍的な成長を遂げる人が出ることがあります。私自身、思い起こせば高校受験やラグビーの夏合宿、そして県議選……極限状態の中に身を置き修練を積むことで、今まで越えられなかった自分の壁を越えることができるのです。今日の自分は昨日の自分ではない! 日々新たに成長を続けること、人に真似できないほどの努力により自信を積み重ねることが必要です。「今は未熟な自分だけれど、今に見ていろ俺だって!」そうした気概で日々を精一杯生きていれば、三日後の自分はひとまわり大きくなっていることでしょう。
「炎天」
人皆我を忘れ、涼を求め貪る。我ら理想を求め、灼熱の道を歩まん。
私の出身塾・森田修学館では、受験勉強だけでなく、社会性の醸成や人格形成を目的とした精神性の高い教育が行われています。塾の入り口には大きな黒板が掲げてあり、そこには故事や格言・館長先生自らの言葉など、塾生達に刺激を与えるメッセージが書かれています。私はその「黒板事項」と呼ばれるメッセージに大きな影響を受けてきました。毎月このホームページで更新する「今月のことば」も、「黒板事項」を模倣したメッセージ形式だと言っても過言ではありません。
この「炎天」という詩は館長先生が自作されたものです。理想があるのならば、誰もが安きに流されるときにも、敢えて灼熱の道を歩め! という檄です。
熱い夏がまたやってきます。炎天下にもたゆまず一歩ずつ歩んで行こうと思います。
只今其時、其時只今(ただいまがその時、その時がただいま)
佐賀藩士・山本常朝の武士道論を聞き書きした書、『葉隠』に出てくる言葉です。「その時」とは「人生の大事な場面」と訳してみるとわかりやすいでしょう。「今が人生の大事な場面、人生で大事な場面は今」ということです。
例えばあなたが野球の選手で、いつの日か大リーグの舞台でホームランを打ちたいと夢見ているとします。そのとき大事なことは何でしょう? 私の答えは「日々の一打席、日々の素振り一つに全力を尽くすこと」です。
人生において自分にチャンスがいつ回ってくるかは誰にもわかりません。チャンスの女神は気まぐれです。待てど暮らせどチャンスの欠片も見えない日々を送っていても、思いも寄らないときに突然チャンスが巡ってくることもあります。突然に代打が告げられいきなり打席に立たされたとき、その乾坤一擲のチャンスに結果が出せるかどうかが勝負なのです。打席に立ってジタバタするようではヒットもおぼつきません。来るべきチャンスを信じて平時の努力を怠らないこと、大舞台で打席に立っても気後れしないだけの自信を平時の努力によって身につけること、その心構えがある者こそがチャンスをものにすることができるのです。今がその時である、という真剣さで日々を過ごすことが成功への道なのです。
OTAGAISAMA〜お互いさま
日本に昔から伝わっている慣用表現にはさまざまな良い言葉があります。ケニアのノーベル平和賞受賞者・ワンガリ=マータイさんによって世界的に有名になった「MOTTAINAI(もったいない)」、日本青年会議所が力を入れている「OMOIYARI(思いやり)」などです。私が次に日本の心を世界に紹介するならば……この言葉なんてどうでしょう?
古来、農耕民族として自然と共に生きてきた日本人には、自然を畏れ敬う気持ちや、いいときもあれば悪いときもあるという無常観、家族や地域といった共同体の絆を大切にする心などが育まれてきました。そうしたメンタリティから生まれた発想が「お互いさま」です。困った人がいればゆとりのある人が助けてあげる、そこには何の理屈も打算もありません。自然な気持ちの中で生まれ、自然に実践される相互扶助の心です。
今の日本にお互いさまの心がどれだけ残っているでしょうか? 自分の権利を主張することばかりに心を奪われていないでしょうか? 社会の中で自分が生かされていることに感謝し、社会の一員として善く生きることが大事だと私は思います。それは決して大きな話ではなく、身近なところから始められることだと思います。身近な仲間が困っていれば、自分のできることをしてあげる。話を聞いてあげるだけでもいい、励ましてあげるだけでもいい、駆けつけてあげるだけでもいい。自分にできることをするのが、最大にして最高の、社会を善くする方法です。
時間も労力も費用もかかって、うまくいかなければ逆恨みされることだってあるのですから、人助けは割に合わないことも多いものです。「自分もそんなに楽じゃない状況で、なんでそんなに人にしてあげられるの?」そう聞かれたとき、笑顔でこう答えられたらと思います。
「僕も今までずいぶん人から助けられてきたけんね。困ったときはお互いさまたい。」
身支度半分(みじたくはんぶん)
西日本銀行勤務時代、渡辺通支店の松本支店長がいつもおっしゃっていた言葉です。4年間の内勤で預金や融資の修行を積んだ後に営業担当になった私は、朝からカブ(50ccのバイク)に乗りお客様のところへ向かっていました。営業社員には毎月預金や融資の目標額があり、それをクリアするために汗をかく日々でした。
ある日の朝、張り切って支店を飛び出した割には、夕方帰って来たときには成果がありません。思わず夕方の営業会議で「今日は資料がなかったので交渉が進みませんでした」と苦し紛れの言い訳をしてしまった私……。そこでいただいた諌めの言葉がこの一言でした。
「出かける前の準備の段階で、仕事は半分終わっていなければならない。準備不足でお客様のところに行くのは、先方にとってもこちらにとっても時間を無駄にすることであり失礼なことだ。準備万端整えて自信を持って出かければ、交渉もスムーズに行く。どんなことでも大事なのは事前の準備で、ことが始まったときには決着がついているのだ」
四月、新年度を迎え皆さんの身支度はいかがですか? しっかり身支度を整え、夢に向かって頑張りましょう!
人生には解決なんてない。ただ進んでいくエネルギーがあるばかりだ。
「星の王子様」などを書いたフランスの作家、サン=テグジュペリの言葉です。
高校時代、私が将来政治家になりたいということを告げたとき、アメリカからやってきた教師アラン・ガディ先生は興奮気味に何度も「SOLUTION!」という単語を口にされました。政治とはまさにSOLUTION(問題の解決)なのです。
しかしながらテクジュペリが言うように、「人生には解決なんてない」のと同様、世の中にも単純明快な解決法なんてそうそう転がってはいません。あちらを立てればこちらが立たぬというジレンマの中、さまざまな問題を解決しなければなりません。そんな時に必要なのが、「進んでいくエネルギー」なのです。問題解決への熱意と行動こそが、なんともならない問題をなんとかするのです。
人生の応用問題は小手先のマニュアルで解けるものではありません。全身全霊を賭けて火の玉となって立ち向かってこそ開く扉があります。岩より固い意志と炎のような実行力が必要です。
日々に流され目標を見失ってはいませんか? 目標に向かうエネルギーを充分燃焼させていますか? 人生がエネルギーの燃焼であるならば、充実した日々を送って完全燃焼したいものですね。
成功の要諦は、成功するまで続けることである
言わずと知れた経営の神様・松下幸之助氏の言葉です。「そうか成功するまで頑張ればいいのか!」というシンプルで前向きな受け止め方も可能ですし、逆説的に「頑張り続ける気概のない人に成功はない」ととることもできますね。優しくも厳しくも受け取れるところがこの言葉の深いところのような気がします。
人は誰も失敗などしたいはずもなく、できることなら手っ取り早く成功したいものです。私のもとにも「どうすれば選挙に当選できますか?」といった問い合わせや取材がたまに来ます。そうした人の「どうすれば成功できますか?」という問いへの答えとも言えるのがこの言葉です。
人生には成功のマニュアルなどないのです。
サラリと「続ける」とおっしゃっていますが、その「続ける」ことが大変なのです。「失敗しても失敗しても成功するまで諦めず頑張り続ける」ということで、石にかじりついてもやり遂げる根性と熱意がなければ成功はおぼつかないということでしょう。その覚悟なしに簡単に成功などはないのです。
逆に、どんなに不可能に思える道のりであっても、諦めない限り成功への道は閉ざされていないのだという希望の言葉でもあります。「そんなことは無理だよ」と簡単に人の夢や努力を否定する人もいますが、愚直であっても一歩一歩前へ進み続ける人に、私はエールを贈りたいと思います。
自分が投げたボールが自分に返ってくる
昨年末に福岡青年会議所を卒業された先輩・高橋努武さんの言葉です。仏教にも造詣の深い高橋さんは青年会議所内にも信者(?)が多く、彼を尊敬し慕う後輩たちにいつも囲まれていました。いわゆる「因果応報」の概念をわかりやすく表現したのがこの言葉です。
経営の苦労、組織運営の悩み、人間関係のトラブル、さまざまな相談に対して高橋さんはこう答えます。「人にはいろんな悩みがある。でもそのときによく考えてごらん。全部自分がやったことが返ってきようとよ。自分が投げたボールが、そのまま自分のとこに返ってきようと。自分にふりかかる全ての問題は、自分が引き起こしとうとよ。人のせいにしちゃいかんよ。まず自分のことを振り返ってごらん。必ず自分の中になおさんといかんところがあるけん」
確かに、人は苦しいとき、その原因を外に求めがちです。しかしこの言葉は「悩みの原因は必ず自分にある」としています。人のせいにして悪口を言う前に、自分に非はないのか振り返ることが必要です。自分にできる最善は、自分の行いを善くすることなのです。
私自身に対する反省も込めて、この言葉を本年最初のことばとさせていただきます。
好きこそものの上手なれ
10月28日、日本シニアオープン選手権において青木功プロが優勝しました。逆転優勝もさることながら、そこで話題をさらったのが「エージシュート」の達成です。「エージシュート」とは年齢以下のスコアで18ホールをまわること。最終日、65歳2カ月の青木選手は年齢と同じ65でホールアウトし、ゴルファー憧れの大記録を達成しました。表彰インタビューでのコメントがまたふるっていました。「好きこそものの上手なれ、だよ!」少年のように天真爛漫にはしゃぐ青木選手を見ながら、ふと我が身を振り返ってみました。
私は政治の世界を志し、理想に燃えてこの世界に入りました。誰が強いたわけでもなく、自分の強い意志で立候補したわけです。多くの有権者の皆さんの支持を得て当選させていただき、現在の公職があるのです。しかし厳しい現実を前に、当選後もなかなか苦労が絶えません。「自分が好きで選んだこの道なのに、なぜこんなに苦しいのだろう」というジレンマが常にありました。それだけにこの青木選手の言葉「好きこそものの上手なれ」は、単なることわざ以上の重みで私に届きました。
プロゴルファーになるような人はきっとゴルフが大好きで、かつ得意な人だったのでしょう。しかし過酷な勝負の世界で一打を争う闘いを続けるうちに、たくさんのスランプに遭遇するのです。タイガーウッズでさえ打ち方がわからなくなるというのがこの世界です。そんな五里霧中の世界でトップランナーとして走り続けて来た青木選手の明るさは、私を勇気付けました。苦しい場面でも目標を忘れず励み続ける……自分が選んだこの道が好きだから!「もっともっとこの道を好きになって、一流の人物になっていかなければ!」自分で選んだ政治家の道。誰でもはできないこの職につかせていただいていることに感謝し、力いっぱい頑張っていこうと思います。
政治家の実績の差は責任感の差である
人間性の差は積んできた苦労の差である
先日、宗像市の初代市長である天野敏樹さんがお亡くなりになりました。天野元市長の孫であるGくんは私の大学時代からの親友であるため、私も葬儀に参列しました。そこで福岡4区の渡辺具能代議士が涙ながらに読んだ弔辞で出てきたのが、天野元市長のこの言葉です。
政治家に必要なものは責任感と良き人間性です。そしてそのバックボーンとなるのが苦労をしてきた経験です。官僚出身や二世三世といった世襲、落下傘候補など政治家にも様々な類型がありますが、その人が政治をするにふさわしいかは「人の苦労がわかる人間か」ということにかかっているのではないでしょうか。
今から5年前、私が初めて出馬しようと意志を固めた時、天野元市長に相談に行った日のことを思い出します。とても無茶な闘いでしたが、天野元市長は私の暴挙を止めるでも咎めるでもなく一冊の本をくださいました。そして「政治の世界は苦労するぞ。」と優しく諭してくださいました。あの人間の大きさ・優しさは苦労をしてきた人ならではのものだと、今あらためて噛み締めています。天野元市長のご冥福を心よりお祈りいたします。
成功する人とは 多くの人に助けてもらえる人である
先日行われた先輩の結婚式での、主賓の挨拶で出てきた言葉です。学生ベンチャーとして業を興した先輩は、苦労を重ねて現在の成功に至りました。その過程をつぶさに見てきた恩師が言ったのがこの言葉でした。
「成功する人とは失敗しない人ではない。松下幸之助も本田宗一郎もたくさんの失敗をしてきた。成功する人とは、そんな挫折のときに多くの人に助けてもらえる人である。君には人から助けてもらえるという才能があった。今日の成功も多くの人の助けのおかげだと肝に銘じ、常に感謝の心をもってこれからの人生を歩いていって欲しい」といった趣旨のことをおっしゃいました。
「人を助けること、人から助けられること」先月のことば「徳は身を潤す」にも通じるテーマです。
徳は身を潤す
私の実家の座敷に架けてある書からの引用です。権大僧正何某と書いてあるので、どこかの偉いお坊さんが書いてくれたのでしょう。子どもの頃これが何と書いているのかもわからず気にもしていなかったところ、ある日同居していた祖母が「とくは、みをうるおす」と読んだことで意味がわかりました。
徳という目に見えないものが、巡り巡って身を潤すという金言です。善い行いをしていれば良い報いがあるといった、仏教的因果応報の考え方です。
「徳」よりも目先の「得」のほうが優先される時代だからこそ、この言葉に味わいがあります。そもそも徳とは何かが難しいところですが、私のイメージでは「世のため人のために善い行いをすること」といったところです(自分のためにするのであれば「徳」ではなく「得」でしょう)
自分自身の積んだ徳が我が身を潤すこともあるでしょう。また先祖が積んできた徳によって子孫が潤うこともあるでしょう。日々の生活の中でもそれを感じることがままあります。我が身の幸運は、父母はじめ先祖の善行の賜物だと思うこともしばしばです。
徳のある行いを行動規範とすることが、長い目でみて成功への近道なのではないでしょうか。人間は社会的動物なので、人に良くしたことはいつか自分に返ってくるのです。(もちろん徳とは、成功するためや我が身を潤すために行うものではありません。卑しい目的での行動はすぐに見透かされますので、見返りを求めるようではいけませんね)
疾風に勁草を知る
風がなければどの草も同じに見えるが、激しい風(疾風)が吹いた時にはじめて風にも倒されない強い草(勁草)が見分けられる。逆境を通じてはじめて、その人の意志の強固さや真価が分かるということ。
自民党県議団に移籍して三ヶ月。その間、県議会と参院選を初めて自民党籍の立場で経験しました。閣僚の失言、事務所費の問題、強行採決……さまざまな失点を続けたことで自民党への不信感は強まり、凄まじい逆風が吹いていることは私も日々肌身に感じていました。
そして参院選での大惨敗……。私が自民党に入った時期は最も悪いタイミングだったかも知れません。しかし自分が信念を持って選んだ道です。責任を持ってまっとうしたいと思います。言葉を尽くしてもご理解いただけない分には行動をもって示すほかはなく、毅然として我が信じる道を進んでいこうと考えています。
愚公移山(ぐこういざん:愚公、山を移す)
辛抱強く努力すれば、どんなことでもいつかきっと成し遂げられるということ。
昔中国に愚公という九十歳になる老人がいた。自分の家の前にある山のため一族がおおいに不便を強いられていたのでこの山をよそへ移そうと決意し、息子と孫を引き連れ山を崩しはじめた。それを見た知叟(ちそう)という利口者の老人は愚公を笑い馬鹿にした。ところがそのやりとりを見ていた天帝が愚公の心意気に感心し、山をよそへ移してやった。という故事から。
私がこれまでの一期四年間で取り組んできたことが、少しずつ陽の目をみようとしています。ひとつは多重債務問題(おにきどんタイムズ16号参照)。いままでこの問題は「借りる本人の問題だ」として公的な取り組みがされてきませんでした。しかし県では今年度より「大きな社会問題だ」という認識で、相談体制の充実や生活再生の手助けなどに取り組むこととなりました。
もうひとつは県の財政改革(平成17年度決算特別委員会などで質問)。毎年増え続けている県の借金を、単年度で減少にもっていくことが必要だと私は議会で主張し続けてきました。これを受け、県が発表した新財政構造改革プランでは、平成22年度には県債残高を減少に転換させる方針となりました。
どちらも小さな一歩でしかありません。しかし信念を持って取り組んだことが前進していくことは何にも代えがたく嬉しいものです。小さな一歩の積み重ねがいつかは山を動かすのです。
私がやろうとしていることの全ては、わが身一つで山を動かそうという類のことかもしれません。しかし私ができなくても、後に続く人達が根気よく努力を続ければいつかは叶うことだと信じています。正しいと信じたことを貫くこと、実際に行動すること、諦めず一心に打ち込むこと、この故事は、人間の努力の偉大さ、信念を持つ人の強さ、勤労の尊さを語っています。愚公を馬鹿にした老人は利口者かもしれませんが、人のやっている行動にけちを付けるばかりで自分では何一つやらない批判家です。「人になんと言われようが、自分の信じたことに打ち込む強さを持ち続けたい」と、あらためて感じる二期目のスタートです。
政治とは可能性の芸術である
アメリカの国務長官だったキッシンジャー氏が、去る4月に来日されました。その際に出演したテレビ番組を私はたまたま見ることができたのですが、そこで彼が引用したのがこの言葉です。キッシンジャー氏はさらにこう続けました。
「政治とは現実世界の問題を解決していくものです。大事なのはそのバランスを理想と現実のどちらに近いところでとるかなのです。目の前の現実への対処だけなら誰にでもできます。より理想に近いところでバランスを取りながら現実の問題を解決するのが優秀な政治家なのです」
その通りだ!と私はヒザを打ちました。政治家に求められているのは場当たり的な対応ではなく、過去に対して整合性があり現在において実現可能で、かつ未来に向けて責任の持てる指針を示すことです。その作業こそ可能性という糸でつむぎだす芸術なのだということなのでしょう。
理想だけでは世の中が成り立たないこともわかっています。さまざまな人々の利害がぶつかりあい、ともすれば醜い現実世界。そんな中でも理想を掲げあるべき社会像を追求する作業が政治であるならば、それはまさに芸術と言って然るべきでしょう。
もちろん政治と芸術は違います。責任ある政治家なら、国民が食べていけることが最優先です。そうしたリアリズムに立脚しながらも、高い志を保ち理想を求め続けたいものです。
春風や 闘志抱きて 丘に立つ
春という季節はいつもセンチメンタルです。卒業、入学、就職、年度替わり…。厳しい寒さの冬を乗り越え、新しい生活が始まります。そこにはたくさんの出会いと別れがあります。勝利や敗北、希望や不安、人生の悲喜があります。咲いては散る桜のように、これほどまで人生の明暗のコントラストを感じる季節はないのではないでしょうか。
私が迎えるこの春も大変感慨深いものとなりました。桜咲く季節に多くの仲間達に支えられ選挙を闘い、二期目の県議会を迎えようとしています。四年間お世話になってきた会派を移ろうかという決断を前に、涙の毎日を過ごしました。
不安があろうと別れがあろうと、たくさんの思いを残して前に進んでいかなければなりません。暖かな春風を受けて、新しい環境に挑む闘志! 何があろうとこの人生、前に進むしかないのです。涙を拭いて歩き出そう! 頑張るぞ!
※高浜虚子:明治期に活躍した俳人
「俳句とは季語を重んじ平明で余韻があるべきだ」とし、客観写生を旨とすることを主張した。
意思あるところ、道あり。where there is a will, there is a way
純粋な若者達に政治や行政の世界で頑張っている人達を見てほしいと、鬼木事務所では春と夏の年二回、学生インターンシップを受け入れています。二ヶ月のインターン期間終了時に「学生に一言」ということで色紙を渡すのですが、今回私が七期生の学生達に贈ったのがこの言葉です。
これからの長い人生、良いときもあれば悪いときもあるでしょう。行くべき道を見失い途方にくれることもあるでしょう。そんなときに思い出してほしいのがこの言葉です。
自分が最初に思い描いていた初心に立ち返り、再びその意志を強く持つことができれば、おのずと道は開けてくるものです。意志を貫く強さと決して諦めず歩き続ける努力が、道を開きます。自分を信じなければならない場面での魔法のコトバとして、この言葉を贈りたいと思います。
どんなに地上が雨や嵐であっても、雲の上にはいつも太陽が輝いている
先日、私の出身塾である森田修学館の終了式(学校でいうところの卒業式)に参加しました。そこで卒業生へのはなむけとして先生が贈られたのがこの言葉です。柿添先生は英語科の先生で、20年前には私も教えてもらった(おかげでラ・サール高に合格できた)恩人です。
長い人生の中にはたくさんの困難があります。目の前の苦しみに先が見えず途方にくれることもあります。そんな状況を乗り越えるために必要なもの、それは「希望」ではないでしょうか。「雲の上にはいつも太陽が輝いている!」そのことを信じて日々の努力を積み上げることが必要です。雲がはれたその時、大きく飛躍できる力を蓄えておくのです。
もうすぐ冬も終わり、希望の春がやってきます。目の前のことにクヨクヨせず、一歩ずつ着実に歩いていきましょう!
人生のあらゆる状況は楽しまなければならない
私が大学生の頃、父の後輩である貿易商Tさんの中国・香港出張にお供させていただきました。飛行機で香港へ行き香港トレードショーに参加、船で中国に渡り広州トレードショーに参加しました。貿易商と言えば格好良く華やかですが、地道な仕事はなかなか大変なもので、外国人との交渉や長い移動には気力体力のタフさが求められました。
かばん持ちの私が疲れてグッタリしているときにTさんがおっしゃったのがこの言葉です。長い人生には良い時も悪い時もあります。苦しいことも辛いことも次々に襲ってきます。それらあらゆる状況をひっくるめて、全てを楽しまなくてはならないということです。
私も議員という職業に就いてからの四年間、たくさんの辛い苦しい状況がありました。「自ら選んだ道なのになぜこんなに苦しいのだろう?」と思い悩むこともありました。そんなときに思い出したのがこの言葉です。
以来、どんなに困難な状況もそれが自分の二度とない人生の一部なんだと受け入れ、「その全てを楽しんでやろうじゃないか!」と前向きに考えるようになりました。ましてや私は自ら望み有権者の皆様から信託いただいた職業です。弱音を吐くわけにはいきません。前向きに元気いっぱい頑張ろうと思います。辛くても人生、楽しくても人生。あなたは人生を楽しんでいますか?
我、事に於いて後悔せず
剣豪・宮本武蔵の「独行道」二十一箇条のひとつです。月並みな言葉に聞こえるかもしれませんが、ひとつひとつの決断や進退が重たい状況になるほど、この言葉の深さは身に染みます。
私もたいした経験がある訳ではありませんが、いろいろな方から進路などについて相談を受けたときには必ずこう聞きます。「それであなたはどうしたいと思っているのですか?」
二度とない自分の人生、悔いを残さず生きなければなりません。大事なのはこの命、人生を、自分自身がいかに生きたいのかということではないでしょうか。
いろんなジレンマの中、どうしたら良いのかわからないから相談に来ている人に対し、「あなたはどうしたいの?自分で決めなさい!」というのは酷かもしれません。決断することも悔やまないことも人には難しいものです。しかし本当に自分がどうしたいのか、長い目で見て悔いが残らない道を自ら見つけなければなりません。
そして決断したら、二度と悔やまず振り返らず前に進むこと。あなたが選んだあなたの道を、他の誰でもないあなたが歩いていくのです。後悔しないことが偉いのではなく、悔いなく生きる日々の覚悟にこそ価値があるのです。
トップに立つ人間にとってもっとも大事なこと、それは「勘」だ。
ずいぶん前に読んだ古いマンガの一シーンからの引用です。このセリフはさらにこう続きます。
砂漠の真っ只中にひとり立たされた時、右へいこうが左へいこうがすべて自由だ。どこへでもいくことが出来る。どっちの方向にオアシスがあるか、どっちへいけば命が助かるか、水のありかをかぎだす勘さ!
くだらないと笑われるかもしれませんが、この言葉の持つ説得力は今でも私の心に残っています。どっちに進むかを導く(lead)のがリーダー(leadaer)です。方向を決める人間の責任は重く、間違うことは許されません。勘などという目に見えないものに頼るのはあまりにいいかげんな話のようですが、リーダーには直感が大事だというのは間違いないことだと思います。誰にも先の見えない世界だからこそ、先を見通す目と直感を研ぎ澄ませなければなりません。こうした有形無形のリーダーシップを追求していきたいと、日々心がけています。
忙しい忙しいと言うな! 忙しいとは能力が無い者のセリフだ
「第二回 鬼木まことを大きく育てる会」の冒頭挨拶にて紹介させていただいた私の恩師の言葉です。
議員に当選してからしばらくの間、私は猛烈な忙しさに日々追われていました。二言目には「忙しい」ということを言い訳にしている自分がいました。
そんなときに戒められたのがこの言葉です。この言葉はさらにこう続きます。『いつも忙しいと言っていると、「あいつは仕事がさばけない奴だ」と思われてしまう。また、「そんなに忙しいのならもうあいつは誘わないでおこう」と人が離れていってしまう。いつも忙しぶっている人を見てみろ。そんな人に限ってたいして忙しくないものだ。忙しいのは自分だけではない。誰だって忙しいのだ。自分ばかりが忙しいような顔をするんじゃない』
そうです、誰だって忙しいんです。そんな中で時間を上手にやりくりしているんです。苦しい状況でも涼しい顔で乗り越えてみせてこそ、一流の人物なのです。
点滴、石を穿つ(てんてき、いしをうがつ)
ポトリポトリと一滴づつ落ちるわずかなしずくでも、長い間同じ所に落ち続ければ硬い石にも穴をあけてしまうという意味。どんな小さな力でも辛抱強く努力すればいつかは必ず成功するというたとえ。
2002年の10月1日、平尾駅前からスタートした街頭演説が、今年で丸四年となりました。夏は汗をかき、冬は寒さにこごえながら、「おにきどんタイムズ」を配ってくれる妻や仲間達と共に、街頭に立ち続けました。議員となってからは本業の議会活動に専念するため頻度を落としましたが、議会と議会の間に発行する「おにきどんタイムズ」は、早や17号となりました。今でも街行く人々の反応は、時に冷たく、厳しさにくじけそうなこともありますが、地道な活動はきっと誰かが見ていてくれると信じて頑張っています。
勝った者が正しいのではない!正しい者が勝つ社会でなければならない!
歌手の松山千春さんが講演するのを聞く機会がありました。現在の社会風潮に対する警句として熱く発されたのがこの言葉です。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」とはよく言ったものです。勝った者が歴史を作り、自らの正当性を主張します。負けた者にはそれに異を唱える権利など残されていません。結果、勝った者のみが正義ということになってしまいます。それは「力=正義」という結論をまねきます。
人の世において「勝てば官軍」というのはひとつの真理でしょう。しかし「勝った者が正しいのではない」というのもまた真理だと思います。
正義というものは、力とは別の次元で語られるべきものだと思います。力のある人が勝つのではなく、正義を貫く人が勝つ社会にしたいものです。そのときに問われるのが私たちの良識です。力のある人に群がるのではなく、正義を貫く人を支えなければなりません。
正義とは、放っておいて自然と与えられるものではなく、幾多の苦難の道のりの上に実現されるものなのです。
雪と欲は、積もるほど道忘れる
新聞のコラムの中で見かけたことばです。混乱と貧困の時代を生き抜いた、明治生まれのおばあちゃんの言葉として紹介されました。先人の言葉は含蓄深いものです。生活の中で身につけた知恵にはかないません。
お金が万能だという拝金主義の風潮は、最近に始まった話ではありません。いつの時代にも経済のあるところには格差があり、豊かさを貪る人間の姿がありました。多くの事件を見るたびに感じるのは「人間の冷静な判断を狂わせるのは欲である」ということです。負ける人のほうが多いからギャンブル産業の経営が成り立っているにもかかわらず、勝つことばかりを考えてギャンブルで生活を破綻させる人が絶えないのはわかりやすい例です。
欲というものは誰の胸の内にも潜んでいます。道を誤らないためには、自分の欲得を排する強い意志と冷静な判断が必要です。特に政治家は、公共の仕事と自分の利益を混同させてはいけません。欲をかいてはいないか、道を忘れてはいないか、常に自戒したいと思います。
断じて行えば 鬼神もこれを避く
断固として決行すれば、鬼神でさえもその激しい勢いに押されて道を避けるという意から、ためらわずに行えば成し遂げられないことはないということ。
政治家は、選挙という名の人気投票に勝ち抜かなければ仕事をすることができません。それゆえに、中身のないパフォーマンスに走ったり、世論に迎合したり、聞こえのいい言葉だけを並べる政治家も少なくありません。
パフォーマンス的公約が世の中を悪くすることもあります。激昂した世論が必ずしも正しいとも限りません。政治家は世をリードするリーダーであるべきです。人の意見にぶら下がるのはリーダーではありません。政治家は己の信念に基づいて、「私はこう思う!」と、恐れず堂々と持論を主張すべきです。それに共感する人々の支持によってリーダーが選ばれるというのが、民主主義のあるべき姿だと思います。
逆に、「物言えば 唇寒し 秋の風(芭蕉)」という言葉もあります。
明確な主張は角が立ちやすいものですし、言ったばかりに損をすることもあるでしょう(損するばかりと言っても過言ではありません)。しかしながら健全な議論を恐れていては、物事がいっこうに前に進んでいきません。断じて行えば鬼神もこれを避く! そう信じて、前に前に進んで行きたいと思います。
背私向公
政治家という職業が国民の信頼を失ってから、もうどれくらいの歳月が経つでしょうか。政治が果たすべき役割の大切さにもかかわらず、国民と政治との距離は遠ざかるばかりだと感じます。
聖徳太子は十七条の憲法でこう言いました。
「私に背き公に向かう、これ臣の道なり」
公人に一切のプライバシーを許さないという意味ではなく、「私の利益に背くことがあっても、公の利益を優先する、これが公職にある者のあるべき姿である」ということです。
日本にはこんなに古くから「公」の精神があったのです。公のために私を捨てるのが政治家であり、私のために公をむさぼるのは政治屋です。
豊かになったこの国から公共心が失われつつあります。国民にとっても政治家にとっても今必要なものは、自分の目先の利害得失ではなく、広くみんなの共通利益、そして将来の世代のためを思った行動なのです。
ロックンロールってなぁ、先に一歩突き抜けたヤツの勝ちなんだよ!
私が高校生のころ、「イカす!バンド天国(通称:イカ天)」というテレビ番組が一世を風靡していました。その番組の中で、アマチュアバンドを審査していたミッキーカーチス氏が言い放ったのがこの言葉です。「先に一歩突き抜けたヤツの勝ち」という表現がカッコ良く、私にとって衝撃でした。
どの世界でも、他の人が主張しないことを先陣切って主張するのは勇気がいることです。その主張は突飛だ、異端だ、売名だと非難中傷を浴びます。しかしながらその口火を切る人がいなければ、膠着した状況は前に進みません。勇気を持って一歩突き抜ける存在でありたいものです。
ただしその主張は、目立ちたいがためのパフォーマンスであってはなりません。中身のある政策、信念に基づく主張、言わずにはいられない正義でなければなりません。次代を切り開く、新しい価値の創造に挑戦したいと思っています。
小さきは小さきままに、折れたるは折れたるままに、コスモスの花咲く
明治39年に生まれ今年100歳になる昇地三郎先生は、全国初の養護施設「しいのみ学園」を作った人物です。私は一度しかお会いしたことがないのですが、その明るさ・温かさとバイタリティーに圧倒されました。シンプルなこの言葉に中に、「生命とははかないものであり、それゆえに美しく尊いものである」ということが表現されています。大きな壁にぶつかり自分の弱さ小ささを思うとき、この言葉を思い出します。
「自分だって野に咲くコスモスのひとつ。思うようにいかないことなんていくらでもある。たとえ小さな力でも、自分のできることを一生懸命やり続けるんだ」
地道な活動には陽は当たらないものですが、私は私なりのコスモスの花を咲かせたいと思います。小さくても美しいと思ってくれる人が一人でもいれば、頑張って良かったなあと思えることでしょう。
今日なすべきことに全力を尽くせ。しからば明日は一段の進歩あらん。
文字通り、「今日しなければならないことは明日に積み残さずに今日やりましょう。」と解釈することもできますが、私は最近別の解釈でこの言葉を噛みしめています。
私は政治への志を押し殺して、7年間銀行員として生活してきました。その間は休日を利用して選挙の応援に行ったほかは、一切の政治活動をしませんでした。銀行員としての本分に全力を尽くし、社会人としての信頼を得ることを心がけてきました。
一見遠回りのようでしたが、結果としてその行動は正しかったと思います。『先を急がず、今自分が置かれた立場の中で全力を尽くすこと』が大切です。今日なしたことの積み重ねが明日を創るのです。
ちょっとの勇気があれば、人生が楽しくなるね。
たくさんの趣味を持って楽しく過ごしている伯父のことを話しているときに、伯母が会話の中でふと漏らした言葉です。感受性の強い私の妻は、それを聞いてグッときたそうです。
やりたいことや強く願っていることが、誰にも多かれ少なかれあることでしょう。しかし現実の生活がある中でそれを形にしていくには多くの困難が伴うものです。理想を現実に変えていく第一歩、それを踏み出す勇気が時として必要です。妻は自分を奮い立たせるときにはいつも、魔法のおまじないのように「ちょっとの勇気、ちょっとの勇気」とつぶやいているようです。
人生を楽しくするのもつまらなくするのも自分の行動次第です。目の前の困難を乗り越えようとする「ちょっとの勇気」。あなたも一歩踏み出してみませんか?
天下為公(天下をもって公と為す)
昨年の中国公式訪問の際、南京の国民政府総統府を訪れました。そこで目にした言葉が孫文直筆の「天下為公」でした。いい言葉だと感じた私は木製のレプリカを買って帰りました。いろいろな読み方や解釈がありますが、私は「天下は権力者の私物ではなく、公(そこに暮らす全ての人々)の為のものである」という意味にとっています。
今まさに日本に必要な観念が、この言葉に凝縮されてはいないでしょうか。人を犠牲にしても我欲で利潤を貪る民間企業、既得権益を守り保身を第一とする官僚、力の強い企業・団体とつながって身動きのとれない政治家……。昨年はそういったことを象徴する嫌な事件をたくさん見てきました。この国に公という精神は残っているのでしょうか?
人間は社会的動物です。自分だけが良ければ全て良いということには絶対なり得ません。公とは社会全体の利益です。社会全体が良くなることが自分の利益にもつながりますし、逆もまた然りです。社会全体を良くするために、行政がやるべきこと、民間がやるべきこと、私達ひとりひとりがやるべきことを整理し追求しようというのが私の今年のテーマです。
「自由と豊かさだけを求めエゴイストになってしまった日本に、公の精神を取り戻したい」不肖未熟の身で僭越ながら、年頭にあたり今年の活動指針とさせていただきたいと思います。
「何々になろう」とする者は多いが、「何々をしよう」とする者は少ない
日本の高名な物理学者であり、大阪大学初代学長を務めた長岡半太郎の言葉。「何々になる」という目標は空疎な意味しか持ちません。それになれた時点で目標が達成されてしまい、もっと大切な「何をするのか」というところに辿り着かないからです。
杉村泰蔵氏がマスコミに現れて以来、目に見えて「政治家になりたい!」という若者が増えてきました。それは喜ばしいことでもあるのですが、その先の「何をしたい!」というものが希薄なケースが多々あります。何をするために政治家になるのか? 政治家はスターでもなければ権力者でもありません。本当に世の中のために生きようと思うのなら、そこから先は荊の道のりです。その覚悟もなく簡単に「政治家になりたい」と言ってほしくない、というのが私の本音です。政治家になりたいだけの、そしてその座にしがみつくだけの政治家なんていらないですよね。
起きて半畳、寝て一畳
たとえどんな大きな家に住んでいようと人ひとりが占める場所は起きているときは半畳、寝ているときは一畳あれば済む。広大な家に住む金持ちをうらやんでむやみにあくせくしてもつまらないということ。
私は、虚飾にまみれて派手な暮らしをする人が格好いいとは思いません。質素でも一生懸命生きていることが伝わってくる人のほうが美しいと感じます。足るを知り多くを望まず、シンプルな生活を心がけたいものです。(※ちなみに先日訪れた神戸の「人と防災未来センター」によると、国連の定める人間の最低居住空間は約二畳だそうです。)
政治は遊びや道楽やなかとじぇ! 命を賭けてやるもんじぇ!
九州大学在籍時、将来政治家になりたいと思っていた私は、太田誠一代議士のもとで政治の勉強をさせてもらっていました。
そんなある日、当時太田代議士の秘書であった三船さんが、糟屋郡の県議会議員に立候補することになりました。秘書出身で大きな選挙資金もなかった三船さん、学生ながらも選挙で大きくお金がかかるのは人件費だと気付いた私は、無償で専属運転手役を買って出ました。そして三船さんも私を一人前にしてやろうと親身の指導をしてくださいました。選挙戦の忙しい中、車中で私に語りかけたのがこの言葉です。
政治は遊びや道楽でやれるほど簡単なものではない! 命を賭けてやるだけの覚悟と責任が必要なものなのだ! ということを教えてくれました。私も会社を辞めて立候補するときには相当な覚悟で臨みました。いまでもこの世界のシビアさや責任の重さをひしひしと感じる日々です。
熱意こそ人を動かす
最近テレビで、小泉首相が総裁選に出馬したときの古いVTRを見ました。不利であることが明確な状況下で、支持してくれる仲間達に囲まれ激励を受けたときに、あの小泉さんが涙してこう言いました。「人間を動かすのは計算ではないね。」これを見て思い出した私の大切な言葉が「熱意こそ人を動かす」です。
銀行のラグビー部で過ごした日々は、私にとってかけがえのない楽しい時間でした。厳しい経済情勢の中、営業社員としてノルマに追われながらも、仕事もスポーツもきっちりやり遂げる。そんな「文武両道」が創部当初からのラグビー部のモットーでした。ときに行き詰まる部員を励ました監督の檄が、この言葉です。上司との軋轢、顧客との交渉……逃げ出すのではなく正面からぶつかるのだ! 熱意こそ人を動かすのだから。そう教えてくれました。
公私の別を明らかに!
私が7年間勤務した西日本銀行で、朝礼時にみんなで唱和していた行訓の一つです。
人様の大切な財産をお預かりする銀行員は、ときとして大金に触れます。しかしながらそれは決して自分のモノではなく、1円たりとも身に付けることは許されません。ごくごく当たり前のことですが、この基本が徹底されることが大切です。
この世の中、自分のお金と人のお金の区別がつかなくなった人がどれほど多いことか! 無駄遣いも人の金、ばらまくのも人の金、着服するのも人の金、様々な事件を見るにつけ、この言葉を思い出します。特に公職にある者は、常に心して「公私の別」を明らかにせねばなりません。公的な地位や立場も、私的に利用してはいけません。公的な権限の強大さに触れるうちに、それを自分の権力と勘違いしまうんですね、人間は。議員になってからも、銀行員時代に身に着けた基本の大切さが身にしみます。
価値ある男になれ。価値とは何か? 人にできないことをなしてこそ価値である。
中学生の時分から私が薫陶を受けている、森田塾の館長先生の言葉です。館長先生は教え子達に、勉強だけでなく、こうした独自の帝王学をたたき込んで来られました。
難しい問題に直面したとき、館長先生に「できません」という逃げの言葉は許されません。表現を少し前向きにして「できるだけ頑張ります」と言っても「できることは誰でもできるったい。誰でもできることは価値じゃなか。人のできんことばするけん、価値があるったい。」と怒られます。確かに、難しいとは思いつつも、諦めずに努力を重ねることで可能になることもあります。そうやって自分で作った限界の壁を越えていくことで、価値というものが生まれるのです。
決められた枠の中で前例や慣習に従うだけなら、それ以上の価値は生み出せません。厳しい指導ですが、私をより大きく育ててやりたいという気持ちに満ちた温かい叱咤です。
仁に当たりては 師にも譲らず(當仁不譲於師)
私の出身中学である当仁中学校の校訓です。唐人町の「とうじん」の音に、教育的意味を持つ「当仁」の当て字をしたものだと思われます。人の道である仁を貫くためであれば、たとえ師が相手であっても譲るべきではない、という意味です。いろんなしがらみの中で正義がねじまげられがちな世の中ですが、本当に大事なものは譲る(譲歩する)わけにはいきません。
「ここで引いてしまっては自分が政治をやっている意味がない!」
ギリギリの局面で一歩も譲れない時があります。何かを貫くというのは、人とぶつかることを恐れない覚悟が必要です。自分が信じた道ならば、結果を恐れず堂々と歩きたいものです。
恩は石に刻み、恨みは水に流せ
先日、親友の結婚式に参加してきました。思い起こせば3年前、私が会社を退職し、たったひとりで選挙に挑もうとしていたときに、スタッフとして私を支えてくれたのが彼でした。その結婚式には私がお世話になった方々が多数いらっしゃいました。あらためていろいろな方の応援があって今の自分がいることに気付かされました。
人は、人から世話になったことは時とともに忘れがちです。また逆に、人から冷たくされたことはいつまでも忘れないものです。恩を忘れず、恨みは持たず、そんな生き方を実践していきたいものです。
世の人は 我を何とも云はばいへ 我が為すことは 我のみぞ知る
坂本龍馬はいまでこそ英雄ですが、その人生は奇想天外であり、当時の常識をはるかに逸脱していました。志や夢や理想が大きければ大きいほど、世の中からは理解されなかったことでしょう。豪放な人物として描かれがちですが、実際の龍馬は繊細な心配りのできるセンシティブな若者であったかもしれません。人と人、人と自分、との狭間で悩み苦しんだことも多かったことでしょう。しかし誰がなんと言おうと自分の信じた道を往く、という姿勢がこの一言に表れています。
私も、「人は賛成しないかもしれないが、こうすることがきっと世の中のためになる」という信念を価値基準として、世論におもねず我が道を往きたいと思います。政治家には世論に耳を傾ける誠実さと、自分の信念を貫く頑固さのバランスが必要だと思います。優しさと強さ、そして大局観を持って決断する知恵と力を併せ持ちたいものです。
人生は、Never Too Late!(遅すぎることはない)
プロ野球、元横浜ベイスターズのデニー友利投手が、37歳にしてボストンレッドソックスとマイナー契約を結んだ記者会見での言葉。遅すぎる挑戦に否定的な周囲やマスコミに対し、憤るでもなくムキになるでもなく、淡々と自分の信念を語る姿に「カッコイイ〜!」とシビレました。言い訳ばかりして口先ばかりで何も行動しない人が目に付く世の中で、自分の夢と可能性を信じて全力を尽くす生き方にエールを贈りたいと思います。頑張れデニー! 応援してるぞー!
苦労人・デニー友利投手の野球人生の詳細はこちらのサイトにて御覧ください。
三年先の稽古
受験シーズンが到来しました。親も子も大変な季節です。私はこの言葉を中学生の時に森田塾の先生から教わりました。相撲の世界に古くから伝わることわざだと聞いています。
「力士は、強くなりたい! 横綱になりたい! と思って日々稽古に打ち込む。だけど、一日稽古をしたからといって翌日すぐに勝てるほど、勝負の世界は甘くない。今日やった稽古、明日やった稽古の積み重ねが、やっと三年後に実を結ぶのだ。三年先に実を結ぶような地道な努力の積み重ねが、本当の力になるのだよ。受験勉強も同じだ。すぐには結果は出ないかもしれない。しかし、努力は君たちを裏切らない。今やっている努力が三年後報われると信じて、今を一生懸命頑張ろう!」
当時は受験勉強の話でしたが、今になってつくづく人生と同じだなあと実感しています。すぐには結果は出ないけど、努力は君を裏切らない! 大切なのは自分を信じて地道な努力を続けること! 私は今でも苦しい時には「三年先の稽古だ!」と歯を食いしばって踏ん張っています。
是を是とし、非を非とす。これを知と言う
是々非々という言葉の語源となった言葉です。是々非々とは、よいことはよい、悪いことは悪いと公平な立場で判断することです。では、荀子の言った「これを知という」とはどういうことでしょう?
現在の世の中ではまったく逆に見えてなりません。
世の中でうまく生きていくためには、「どう考えてもこうなんだけどな」と思いつつも言えなかったり、「明らかに違うんじゃないかな?」と思いつつも従ったり、長い物に巻かれることが知恵であるとされる場面が多々あります。また、組織の中での方針に意見することは、天に向かってツバを吐くようなもので、馬鹿な生き方だとされます。それをあえて「知」と言ったのは、「間違ったことを続けていればいつかは破綻がやってくる。正しいことを貫くことが、長い目で見れば結果としてプラスである」という大局観に基づくものだと思います。この大局観を持って、行動として貫くことができることを「知」と呼んだのだと思います。
この文の後には「是を非とし非を是とする、これを愚と言う」と続きます。良いこと悪いことをねじ曲げるのは愚かなことなのです。正しいことを正しいと言えない組織は非常に不健全であり、いつかは行き詰まります。昨年もたくさんの企業が、不祥事やその隠蔽発覚により窮地に追い込まれました。
この国の未来のために、今まさに「知」が必要な時代になっています。風通しの良い世の中、正しいことが正しく評価される世の中にしたいものです。
泣くよりも先にやることがあろうもん!
私がいた6年4組は、ラグビーを小学生向けにアレンジした「フットボール」という競技をクラスでやっていました。みんなこの競技が大好きで、赤組と白組に分かれて激しく火花を散らしていました。ある日のこと、私の白組は開幕から4連敗、どうしても勝てない悔しさに、皆、声をあげて号泣しました。その時です。ひとりの女の子が大声で叫びました。
「あんたたち、泣くよりも先にやることがあろうもん! 相手が強いとか体が大きいとか言わんで、練習して勝てばよかろうもん!」
その言葉に目が覚めました。「よしやろう!練習して次は絶対勝とう!」猛練習ののち迎えた第5戦、激戦の末、白組は初勝利をあげました。
「泣くよりも先にやるべきことがある」今でもこれが私の基本になっています。
泣いてパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない
つらい思いをしたことのない人には人の苦しみはわからない、また、苦境に立たされたことのない人には人の情けの有り難さはわからない、ということを巧みに表した言葉です。
政治家は人の苦しみがわからなくてはなりません。若いからという言い訳は通じません。苦しみ悲しみを知り、人の痛みがわかる人間でありたいものです。 「泣いてパンを食べた」経験というのは、かけがえのない貴重なものです。その時の悔しさ、つらさはいつまでも忘れず、自分の傲慢さを戒めたいと思います。
人事を尽くして天命を待つ
人ができるだけのことをして、結果はただ天に任せる、という意味。事の成否はともかくとして、とにかく全力を尽くすということを言った言葉。
私流の解釈としては「やるべきことをしっかりやっていれば、結果は後からついてくる。結果を気にするよりも、やるべきことをしっかりやっておくことが大切である」日々やるべきことをやり遂げる積み上げが、自信となり力となる。自分を信じることができれば、全力を出し切ることができれば……
結果はどちらでもいいじゃないか! それがおそらく天命なのだから。
命がある限り忘れてはいけない、
今しか僕にしかできないことがある
パンクロックバンドであるザ・ブルーハーツの曲の中の一節です。
私が中学生の頃から聴きはじめたのですが、シンプルな表現の中に込められたメッセージは、心にガツンと響きます。人は何のために生まれ、そして生きているのか?自分の価値とは何か?かけがえのない今この瞬間、自分は何をなすべきなのか?この曲を聴くたび、自分が今という時を全力で生きているか自問します。二度と戻らない時間を大切に、精一杯生きたいものです。
弱いのは恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥だ。
2003年4月の統一地方選挙。資金もなく組織もなく無謀と言われた闘いに挑む私に、一通のメールが来ました。
「自分はまだ学生で、先輩のためにはこんなことしかできないけど……」
ラグビー部の後輩が、私へのエールとして贈ってくれた言葉です。人はそれぞれに自分のおかれた状況や実力というものがあります。それらを悲観したり繕ったりするのではなく、自分の持てる限りの力で全力で挑むことに価値があるのだと思います。自分の弱さを認めながら、努力や工夫で乗り越えて成長していくのです。いまでも苦しい時には思い出す、たいせつな言葉です。
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